泡坂妻夫 毒薬の輪舞 目 次  一章 ヒロポン  二章 ベラドンナ  三章 メントール  四章 リザドトキシン  五章 フェニルチオカルバミド  六章 イエロージャケット  七章 |β《ベータ》エンドルフィン  八章 スコポラミン  九章 ボツリヌストキシン  十章 フルオレスセインナトリウム  終章 パリトキシン  一章 ヒロポン  病院の白い建物を見て、佐織《さおり》は持っていたスーツケースを持ち換え、空になった掌を何度か開け閉じした。それほど重いスーツケースではない。気持の緊張をほぐそうとする運動とも見える。  佐織は振り返って進介《しんすけ》に言った。 「着いたわ」  言われなくとも判っているが、佐織はなにか口にしたいのだ。  進介は手ぶらだった。着古したジャケットにジーパン、靴はスニーカーだった。 「雨も降らず、暑くもなくてよかった」  進介はのろのろと、とんちんかんな返事をした。  二階建ての病院には威圧感はない。中央の玄関に広く張り出されたポーチの白い角柱。その上に聳《そび》える、両側に段段の装飾が刻み込まれた鋭い三角の妻壁。その両翼に張り出された青い屋根と、半円形のルーフウインドウ。白と青との構図は軽快で、建物全体のたたずまいは、病院というより異国の小ぢんまりとしたホテルという感じだった。  ただし、全《すべ》て安心して落着けそうだというわけでもない。それは三角形の屋根のてっぺんに突き出ている青銅色の鐘楼《しようろう》のためらしい。建物全体の軽快な直線を見ると、その塔だけが異質だった。塔の屋根が糊気の抜けた三角頭巾のようにぐにゃりとした曲線で作られていて、鐘楼だけ見るとかなり無気味だ。  道は病院の構内に入ると、玄関のポーチに向かって弧を描き、わずかな登り勾配《こうばい》を作っている。玄関前の植込みには、高いシコロが茂り、植込みの周囲には紫色のヒナゲシが花盛りだ。  進介は佐織より少し遅れて建物に近付いた。  ポーチの四角な柱の傍に二人連れが見える。一人は三十代、漆黒《しつこく》の豊かなウエーブヘアにくっきりとした目鼻立ちで、立っているだけで嬌姿《きようし》になっているといった質《たち》の女性だった。手を引いているのが、見たところ小学校五、六年生ぐらいの、痩せて顔色の青白い少女。眉が薄く切れの長い目が冷たい感じで、二人は親子とも姉妹とも見えない。  その、中年の女性が進介の方を見て何か言ったようだった。  次の瞬間、後ろで濁ったクラクションの音がした。  振り返ると、目の前に小型ワゴン車が迫っていた。 「危いわ」  佐織が道の真中にいた進介の腕を取って引き寄せる。  進介は車に気を取られていた。運転手の注意も進介の方だけに向いていたらしい。ワゴン車は速度を落としながら傍を通り過ぎ、再び速くなった、と思ったとき、鋭いブレーキの音と共に車が急停車した。  進介はびっくりして車の前方を見た。乱れたオレンジ色のワンピースが目の中に飛び込んできた。どういうわけかポーチにいた中年の女性が車の前に倒れかかり片膝を地面に立てているのだ。車との距離はわずか一メートルあるかなしかだ。 「危い……」  進介は傍に駆け寄って女性を抱き起こした。危険な場所に不釣合な香水の匂いに包まれる。 「どうしました?」 「あ、いや……」  ほとんど言葉にならない。顔から血の色が引いている。急に目眩《めま》いが来た、というのでもなさそうだった。女性は思ったよりしっかりと立ち上がった。衝撃だけは急に治まりそうもなく、しきりに首を振っている。  玄関に人影がなかった。いつの間にか女性と一緒にいた少女の姿が消えている。 「もう、大丈夫ですから」  女性は抱えられている相手を意識したのか、進介を振り切るようにして玄関に入って行った。  ワゴン車のエンジンの音が聞こえた。進介は目の前を通り過ぎようとする車のドアに飛び掛かり、拳《こぶし》でガラス窓を叩いた。 「出て来い」  運転席の男がびっくりしたように顔を向けた。坊主刈りの、横に長い顔だった。 「人を轢《ひ》こうとした。出て来い」  進介は夢中でガラスを叩き続ける。 「車を、叩き毀《こわ》してやる」  佐織がスーツケースを放り出して、進介にすがり付いた。 「あなた、お願い……止めて」  車から引き放そうとする。 「邪魔をするな」 「この人はなにもしないわ」 「いや、人を殺そうとした」  佐織に妨げられて動きが鈍くなる。それを見て運転席の男は窓を開けた。 「人を轢こうとしただなんて、言い掛かりもいいとこだ。あの女は車の前に飛び出して来たんだ」 「つべこべ言うな」  進介はわめいた。 「お願い、この人に逆《さか》らわないで、早く行って」  と、佐織が言った。運転席の男は二人を見較べていたが、すぐ納得したように、 「そうだったんですか。じゃ、喧嘩にもならねえ」  と、車の速度をあげた。 「あっ……危い」  進介はよろめいて、車から手を放した。それでも佐織は力を緩《ゆる》めない。二人は重なり合ってポーチの前にひっくり返った。迂回して建物の裏に向かう車のボディに「犬山米穀店」という文字が読めた。  佐織はすぐ起き直り、スーツケースを拾いあげる。なにごともなかったような冷たい表情で、進介を見向きもしない。進介は佐織の後から玄関に入った。車の前に飛び出した女性はどこに行ったのか姿が見えない。  佐織は真っすぐに受付の方へ歩いて行く。それを待っていたように白衣を着て痩せた男が近寄って来た。 「小湊《こみなと》進介さんですね」  進介が見たことのない医者だった。広い額の片側にぼさぼさの髪を流し、神経質そうな小さな目で、薄い眉と眉との間に深い縦皺《たてじわ》が刻み込まれている。  進介が黙っていると、佐織がはい、と答えた。 「入院の手続きの前に、ちょっとお話があります」  男はてきぱきした態度で、二人をロビーの隅へうながした。  土曜日で外来の診察は午前中だった。その患者も一段落したようで、いつも混雑している薬局の前にも人はいなかった。男は真っすぐに待合コーナーに歩いて行ったが、急に立ち止まった。壁際にテレビがつけられている。その前に並ぶようにして、黙黙と画面を見ているずんぐりとした二人の男の後ろ姿に気付いて、気を変えたらしい。  白衣の男はその場所を離れて自動販売機が並んでいる場所に歩いて行った。 「まあ、お掛けなさい」  二人をうながして自分も販売機の前の椅子に腰を下ろす。 「で、その後の工合はいかがですか」 「あまり、変わりません」  と、佐織が答えた。 「ずっと食欲がなく、夜もよく寝られないようで、一日中|苛苛《いらいら》しているんです」 「そう、それはよかった……いや」  男はにやりと笑い、声を小さくした。 「当病院へ入院することになってよかったと言っているのですよ。ここの治療法は素晴らしい。たちまちよくなります」 「…………」 「小湊さんは確か、赤荼羅《あかだら》会の会員で、熱心に布教活動をしていて、この間はここの院長にも入会を勧めたそうですね」 「はあ……」 「つまり、存在し得ないものに心を奪われるから、こういう結果になったのです」 「……存在し得ないもの?」 「ええ。この世の中に、神は存在しないのですよ」 「神様はいないのですか」 「そう。いてはなりません。それが判れば、どんな心の病を持っている人でも、たちどころに全快してしまいます」 「でも……神様がいない、だなんて」 「お疑いですね。よろしい。その証拠をご覧に入れましょう」 「証拠、ですって?」 「そう。私はついこの間、この世に神がないということを、数学的に証明してしまったのです」  男は白衣のポケットに手を突っ込み、メモのような紙片を取り出して佐織に渡した。 「これが、その数式です」  進介が覗き込むと、ボウルペンで折れ釘みたいな字が書かれていた。    - i =42×Z 4−12 「よろしいですか。iを神、Zを人間としたとき、この数式が成り立つのです。つまり、神はマイナスでしか存在しません。マイナスの神、即ち、悪魔なのです」  佐織はその数式と相手とを見較べた。 「真理は数式にしてしまえば、このごとく実に単純なのです。単純ではあるが、これはアインシュタインの相対性理論をはるかに越えた大発見である理由は、この真理によって全人類が神からの呪縛《じゆばく》から解き放たれ、新しい真実に基づいた生活が可能だからです。いずれ、私の理論は学界で承認され、人類は黎明《れいめい》を迎えることになるが、その前に、あなた方にだけ特別、この美しい数式を教えようというのです。千円お出しなさい。お売りします」 「……でも、わたしたちは必要ないわ」 「これは必要不必要という問題ではない。宇宙の法則なのだ。われわれは何人《なにびと》もこれを無視することはできない」 「赤荼羅会の神も否定するのか」  と、進介は大声を出した。 「神は全てマイナスだと式が示している」 「そんな式はでたらめだ」  声を聞き付けたのか、桜色のスーツに白のプリーツスカートの看護婦が駆け寄って来た。 「楽《らく》さん、何をしているんですか」  楽と呼ばれた白衣の男は、のっそりと椅子から立ち上がった。 「また、先生の真似をしていたわね」  楽は不服そうに言った。 「そんなことしていませんよ。私が発見した宇宙の法則を教えていたところです」  看護婦は佐織の方を向いた。桜色のスーツの胸に、花住玲《はなずみれい》という名が読める。 「この人に、お金を渡しませんでしたね」 「ええ」 「それならよかった。これからも注意して下さい。この人からは何も買わないように」  佐織が悲鳴をあげた。  突然、楽が白衣を脱ぎ捨てたからだ。楽は白衣の下に、何も着けていなかった。両手を左右に拡げ、奇声を発して楽は駆けだした。ロビーの中を一廻りする。ロビーの奥は庭に出るガラスのドアが開いている。最後に楽はその庭に飛び出すと見えなくなった。  かなり現実離れした光景だが、楽を見て声を出したのは佐織だけだった。テレビの前の二人は、楽が前を横切ったのに、コマーシャルから目を離そうとしなかった。薬局で働いている職員たちも、楽をちらりと見ただけで、仕事の手を休めようともしない。その他、ロビーにいる何人かの来院者も、静かに楽を見送るだけだ。 「あの人、先生じゃなかったんですか」  と、佐織が玲に訊いた。 「勿論。あんな真似をする先生がいますか。入院の患者なんです」  と、玲が言った。 「ああいう恰好をして人が騒ぐと面白いらしいんです。でも、今じゃ皆慣れっこになってしまって、そうなると当人も張合いがなくなってしばらく静かだったんですけど、あなたたちを見てまたその気になったみたいね」 「判りました。あんな声を出したりして、恥かしかったわ」 「そりゃ、最初は誰でもびっくりしますよ。ここでもはじめは病院中、ひっくり返るような騒ぎになりましたわ。誰かが非常ベルを鳴らすし、二階の窓から飛び出す人がいるし」 「……危いですね」 「でも、その人は窓から飛び出すのに慣れているから大丈夫。身が軽いんです」 「…………」 「知らない人は、先生がおかしくなった、なんて騒ぎますけど、内《うち》の医院で働いている先生は白衣は着用しないんです」 「……そう言えば」 「そうでしょう。皆さん、普通のスーツにネクタイ。ネクタイだけに病院のマークが刺繍されています。患者に会うとき、なるべく相手を緊張させたくないという、院長の配慮なんですよ。じゃ、受付で入院の手続きをして下さい」  玲は佐織をうながした。  玲の言う通り、薬局で働いている人達も白衣ではなく、思い思いのスーツを着ていた。玲の着ている看護婦の服も、やや派手な感じだが、病院の外に出れば、すぐ一般の人と混じってしまうはずだ。  その服装の気配りは別として、病院の中の雰囲気は必ずしも居心地がよさそうだとは思えなかった。どこがどうという指摘はできないのだが、すっきりした建物の外観とは違い、暗く古めかしい圧力を感じる。多分、最初の設計者が、昔の感覚で病院を強く意識しすぎた結果らしい。病院の屋根の上に、中世を思わせるような鐘楼が作られていたが、その暗さが建物の中にも忍び込んでいる。  佐織が受付の窓口で書類をやり取りしている。窓口に6・9という今日の日付けプレートが見える。進介がぼんやりしていると、声を掛けた者がいる。瓢箪《ひようたん》の形をした顔に、ぽやぽやした髪を少しだけ載せた老人だった。袖に緑色の筋が入ったトレーナーを着ている。 「あんた、新入りだべ」  二、三本の歯しか残っていない口が、ぱくぱくと動く。 「知らないのに声を掛けたりして、ぶしつけだと思ったんだが、あんた、赤荼羅《あかだら》会の会員だべ」  老人は目を細めて、進介の胸に付いている金色のバッジに指を触れた。 「実は、あたしも赤荼羅会なんだ。嬉しいね。こう長生きしているのは、赤荼羅会とこの文字原《もじはら》病院のお陰だ。なあ、今年でいくつだと思う?」 「…………」 「こう見えても、八十八の米寿。天空《てんくう》先生より、五つ年上なんだ」 「……天空?」 「おい、鈴木天空。教祖の名を忘れる奴があるか」 「このごろ、頭の中がぼうっとしているんです」 「そうか、病気じゃ仕様がねえが、あたしも鈴木というんだ。あたしの名を忘れたら、天空先生の名を思い出すといい。だが、ここへ来りゃ、大丈夫。すぐ元気になるさ、あたしが請け合うべえ」 「そうですか」 「まあ、今の院長はそうでもねえが、親父さんの大先生は名医だっただ。そうだ。いいものを見せてやるべ」  鈴木老人はトレーナーの襟に手を入れ、セルロイドの定期券入れを引き出した。定期入れには長い紐が付いていて、首に掛かっている。 「これが、文字原病院の第一号の診察券なんだ」  定期入れの中に入っているのは、古く変色したカードで、印刷されてある活字、住居表示、電話番号、全部が古い。診察券の発行は大正六年十月一日、左肩に○○一という番号が打ってある。 「つまり、あたしは文字原病院の一番最初の客だった、ということだ」  と、鈴木老人は胸を張った。 「そのときの診察券だから、まだ正しい地名だ。ここにある通り、朽田《くちだ》という字が正しいのさ。最近になって余所《よそ》者《もの》が多数流れ込んで来て、小生意気な小役人が朽の字は体裁が悪いというんで勝手に久地田町と変えてしまっただ。久地田なんて気取った字を見ると、反吐《へど》が出そうになるわ。昔は良かった」  鈴木は診察券を透かすように見た。その向こうに昔の世界があるようだった。 「あのころ、ここら辺一帯は田圃《たんぼ》でね。その田圃の中に工事がはじまって、さて、何が出来るかいなと毎日やって来て見ていると、これがびっくりするほどモダンな病院であった。さあ、そうなるとどうしても中が見たい。忘れもしねえ大正六年十月一日、開院の前の日からこの玄関に陣取ってね、一晩中待って、もらったのがこの第一号の診察券だった。その日、あたしを診た大先生の言い草がいい。野宿ができるような身体じゃ、どこも悪いところはねえ、だと。本当に先代は若いときから名医であったよ。わはははは……」  入院の手続きが終ったようだった。佐織と看護婦の玲が進介の方に歩いて来る。玲は鈴木の顔を見ると、少し嫌な顔をした。 「鈴木さん、まだ帰らないんですか」 「帰ろうと帰るまいと、余計なお世話だ」  と、鈴木は言った。 「今、この人に病院のことをいろいろ教えているところだ」 「そういうことは、わたしが話をします」 「なに、あんたみたいな娘っ子になにが判るべ。一体、あたしをなんだと思う」 「知っていますよ。病院の第一号の患者でしょう」 「だから教えているんだべ。いいか、あたしゃ誰よりも病院のことにゃ精《くわ》しいんだ。そもそも、この病院が建てられたときの総工費がいくらだとか、工事日数が何日、改装工事が何年に何年、戦争中に落ちた焼夷弾《しよういだん》が何発、そのときここで働いていた兵隊が何人いて一人一人の名前から出身地、今ここで働いている職員の人数から一人一人の給料、月月の米屋の支払いがいくらで魚屋がいくら、庭木が何本あって、草花が何種類あるかまで知っているお兄《あに》いさんだ。まごまごしているとヒロポンを打って頭からかじっちゃうぞ」  玲は知らん顔をしてロビーの左手にある階段をずんずん登っていく。鈴木は相当な年だと言ったが、階段でも平気でついて来る。 「あたしゃね、若いときから不眠症に悩まされていたんだ。だから、病院が開院したとき、一晩中玄関の前で立っていられたんだ。それを聞くと大先生、何と言ったと思う? それは、実に羨《うらや》ましいだと。僕が君の立場なら、夜通し医学の研究を続け、並の人間の倍の成果を上げることができるだろう。ううんと腕を組まれただ。後になって判ったんだが、患者に自信をつけさせるのが大先生のやり方であった。薬もよく効いただ。大先生は西洋かぶれの医者ではなかったよ。漢方の薬をばかにしないのも偉いところで……」  階段を登りきると「診察室」のプレートを貼ったドアが見えた。その隣はガラス張りのナースステーションだった。廊下にはベンチが置かれている。  玲は進介たちを廊下に待たせ、書類を持って診察室へ入って行った。鈴木は進介の横に腰を下ろし、廊下の奥の方を指差した。ナースステーションの向こうは廊下が細くなって奥へ続いている。 「あっちが、第二病棟。廊下を挟んで十の個室があって、一番奥の向かい合った二つが特別室。特別室はいいよ。バス、トイレ完備、冷蔵庫に流し台まであるだ。ちょっとしたホテルだ。今、その片方が空いているが、特別室かね」 「違うようです」  と、進介が言った。 「そうかい。特別室は二○一号室と二○二号室。二○二号室の方は長い間、患者が入院しているんだ。妙なことに、この部屋だけ名札がない。患者は部屋に籠《こも》ったままで、部屋から一歩も外に出て来ない。一度だけ、窓の傍《そば》に立っている姿を見ただ。遠くからだったが、あれは確かに中年の女だった。まるで幽霊みたいに影が薄かっただ」 「入院患者のことも詳しいんですね」 「ああ。二○二号室の女を除いてはね。皆、いい人間だ。もっとも、いい人間だから病気になる。そうでない奴は悪党になる」 「特別室はよほど金持でないと入院できないんですか」 「まあ、そうだべ」 「この病院は患者を差別するんですか」 「そんな恐い顔をしなさんな。ここにいる総裁だって普通の部屋に入っているだ」 「なんの総裁ですか」 「銀行の総裁。それもただの銀行じゃねえ。世界銀行の総裁だから、まず億万長者だべ。最近、その総裁にゃ探偵が付くようになった。豪勢なもんさ」 「……探偵?」 「そう。総裁の腰巾着《こしぎんちやく》みたいにいつもくっ付いて、警護に当たっているんだ。さっきも下のロビーで二人一緒に捕物のテレビを見ていた。この探偵が面白い男で、誰彼となく自分の若いころの写真を見せるだ」 「……いつも写真を持っているんですか」 「そう。海亀みたいに真っ黒で肥った男なんだが、これがね、写真を見ると、これが同一人物かと思うほどさ」 「若いころは痩せていたんですか」 「そう。びっくりするほどスマート。ばかりでなく、色白の二枚目でね。これじゃ、人に見せたくもなるわ」 「…………」 「俺だって若いころは……まあ、探偵と張り合うわけじゃねえが、年てえものは残酷なもんさ。まあ、それはそれとして、あんたがここに来たんで一般室は満室。いや、ベッドに空きのないのはいいことだ」  独りでうなずき、 「敗戦直後のことを思うと、今は天国だ。あの当時は、どの部屋もヒロポン中毒の患者で溢れていて、毎日、地獄を見る思いであった。けれども、大先生は誰にも嫌な顔を見せたことはねえ。その献身的な仕事ぶりを見ていると大先生が仏さまに見えたものです」  鈴木はくしゃくしゃのハンカチを取り出して洟《はな》をかんだ。 「そのころ、世の中は悪い奴だらけ。勿論、ヒロポンなどはとうに製造禁止になっていただが、密造して金にしようという奴が跡を絶たねえ。なんでも、ヒロポンなんかは簡単な道具で家の中でもできちゃうらしいんだ。あたしが調べたんでは、どこでも手に入る咳止めのエフェドリンと分子構造がよく似ている。だから、その薬を還元——判《わか》るべか、その物質から酸素を取り除いてやるんだ。すると、ヒロポンができあがる。こうしてできあがった薬は九層倍どころか、何百倍もの金になるだ。一度その味を占めたら、今度はヒロポン作りの中毒になって、止められねえ」  診察室のドアが開いて、玲が進介の名を呼んだ。  進介がベンチから立つと、鈴木の声が追って来た。 「若先生、どうもこのごろ元気がねえんだ。会ったら、あたしがよろしく言っていたと伝えてくれねえべか」  診察室というより、清潔な事務所か書斎といった感じの部屋だった。意識して医療器具を並べ立てていないようだと気付いたとき、進介はこの病棟には、病院につきものの消毒臭のないことも判った。  コンピューターデスクの前で、紺のブレザー、病院のマークの刺繍の入ったネクタイを緩く締めた男がブラウン管を見ていたが、気配に気付くと、にこやかな顔で振り向いた。 「やあ、小湊君。今年の梅雨《つゆ》は雨が少なくて爽やかだね」  文字原院長は二度しか会ったことのない進介に気さくに話し掛けた。 「でも、このままだと、農作物に影響がでますよ」  と、進介は難かしそうな顔をした。文字原は逆らわなかった。 「それはそうだ。何事も例年並みがいい」  ちょっと見ただけでは四十代の実業家といっても通用するだろう。ふっくらとした顔で、角縁の眼鏡の向こうに下がり気味の目が細くなる。 「まず、どこかの温泉保養所でも行っていると思えばよろしい。すぐ、気分が落ち着きます」 「本当はそんな閑《ひま》な身体ではないんです」 「それは奥さんからも聞いて、充分承知している。君がいなければ、勤め先も困るだろうし、誰よりも奥さんが淋しい思いをする。しかし、繰り返すようだが、放って置くと、もっと皆が迷惑することになる。毎日、睡眠が必要なのと同じで、人生にも休養がなければならない」  病院らしくないのは部屋の模様だけではない。文字原は診察らしいことをしなかった。だが、さり気ない話のうちに、相手を細かく観察していることは判る。  文字原はなにやら玲に指示を与え、それで終りだった。 「陽里《ひさと》先生の都合を聞いて来てくれたかね」  と、文字原は玲に訊いた。玲は進介達が傍にいるので、報告をためらっていたらしい。  玲は言葉少なく答えた。 「はい、今晩、九時ごろなら、と」  文字原はそれを聞くと進介の方に向きなおった。 「私も検査を受けるのですよ。陽里先生に糖尿の検査をしなさいと言われてね。皆、同じ人間、病いは誰にでも出るものです」  進介が言った。 「さっき、そこで鈴木というお爺さんに言われました。先生は顔色がよくないようだから、注意するように、と」 「ああ、一号爺さんね。あの人はまるで私を自分の伜《せがれ》みたいに思っている。面白い人です」 「邪魔じゃないんですか」 「いやいや。人は皆、それぞれに有用であるから神様が地上へお使わしになったのです」  診察室を出ると、もう鈴木老人の姿は見えなかった。 「さっきの人、患者さんなんですか」  と、佐織が玲に訊いた。 「当人は不眠症だと思っているんです。でも、待合室でよく居睡りをしているわ。あれじゃ、夜は寝られませんよ」 「この病院が好きらしいですね」 「贔屓《ひいき》の引き倒しですよ。しょっちゅう病院にいて、新しい顔を見るとさっきみたいに話し掛けて例の診察券を自慢して見せて、注意をするんですがそのときだけ。なにしろ、昔、院長の子守をしたそうで、自分の息子のように思い、始末が悪いんです」  第二病棟の廊下の左右が個室の病室だった。  ルームナンバーを見ていくと、左側が偶数番、右側が奇数番で、一番手前の左右が、それぞれ二一○、二○九で、進介が案内されたのは二○三号だった。  進介の部屋の奥に、一番端の部屋が向かい合っている。外から見ただけで中が広そうだということが判る。二○一号室と二○二号室は鈴木が言った特別室なのだろう。その二部屋のネームプレートは白のままだった。  廊下の突き当たりが非常口だった。進介は二○三号室を通り過ぎて、非常口のドアを開けた。すぐ外は踊り場で、階下に鉄の階段が延びている。 「小湊さん、あなたの部屋はそっちじゃありません」  と、玲が言った。進介がドアの上下を見渡した。 「このドアは鍵を掛けてないんですか」 「ええ。非常口ですからね」 「夜も?」 「ええ」 「じゃ、誰でもここから忍び込めるんじゃないですか」 「余計な心配はしないこと。夜、このドアを開ければ、ナースステーションにサインが付きます」  進介は非常口のドアを閉めた。 「今迄《いままで》、この非常口から怪しい者が出入りしたことなんか一度もないんですよ」  進介は廊下を引き返した。  玲は特別室の隣のドアの前に立っていた。二○三号室だった。進介が特別室の前を通り過ぎようとしたとき、一つの部屋のドアが細目に開いているのに気付いた。  二○三号室の前、二○四号室だった。細く開いたドアの隙間《すきま》から片方の目が進介を見ていた。だが、視線が合う前に、ドアはそっと閉まり、ノブが音もなく動いた。  その、金属的な目の光は、思い出す苦労がいらない。進介が病院に着いたときポーチにいた少女の目だった。進介はさり気なく部屋のパネルを読み取った。  —早崎珊瑚《はやさきさんご》。  ただし、それが少女の名なのか、一緒にいる女性の名なのかは判らない。 「周りのことをあまり気にしないように」  と、玲が進介に言った。 「気にはしませんけど、隣から鼾《いびき》やテレビの音が聞こえて来ると、困るんです」 「隣の方はとても温順《おとな》しいお年寄りですよ。和多本《わだもと》秋代さんと言って、ただ部屋に籠ってじっとしているのが好き。鼾なんかかくような人じゃありません」 「前の部屋は?」 「中学三年生の女の子。他の人とはほとんど口を利かない子よ」 「……若い子は部屋を喧《やか》ましくしているのが好きだ」 「珊瑚ちゃんは違うわ。見れば判るでしょう」  確かに、元気とは遠い、灰色の影のような姿だった。 「この病院の屋根には鐘楼がありますね」 「……ショウロウ?」 「ええ、鐘つき台です。あの鐘、鳴らすんですか」 「ご心配なく。あの鐘が鳴ったのを一度も聞きません。寝ているときに鐘の音で起こされたりしません」 「でも……鐘楼は鐘をつくために作ったんでしょう」 「そりゃ、そうですね」 「せっかく鐘があるのにつかないんですか」 「あなたは——鐘が鳴る方がいいんですか。鳴らない方がいいんですか」 「……よく、判りません」  そのとき、ある音が……それは微《かす》かで方向さえ判らなかったが、全く鐘の音ではないとは断定できなかった。 「今、鐘が鳴った」  と、進介は言った。 「そんなもの、聞こえませんよ」  玲はすぐそう言ったが、表情が固かった。自分もその音を捉えたはずだ。 「いや、確かに鐘だった」  進介が言い終らぬうち、今度はかなりはっきりと同じ音が聞こえた。音量は大きくない。その方向も依然不明だったが、充分に鐘の音の特徴があった。音はやや甲高《かんだか》く、ひびでも入っているような不透明さが、なんとなく無気味だった。 「ほら、今のは聞こえたでしょう」 「いえ、聞こえません」  玲はあくまで否定した。 「あの鐘が鳴るなんて、ばかばかしいわ」 「でも、僕には聞こえた」 「気のせいね。空耳だわ」  そのとき、隣のドアが開いた。  黒縁の卵型の眼鏡、散切《ざんぎ》りの髪の半分は白く、痩せた顔が覗いた。 「今、どこかでピストルの音がしませんでしたか」  おどおどした口振りで玲に訊く。 「この病院の中で、誰がピストルなど撃つんですか」  玲は強く言った。 「でも……」 「和多本さん、本物のピストルの音を聞いたことがあるんですか」 「ええ。しょっちゅう。わたし、いつも狙われているんです」  進介が口を挟んだ。 「あれは、ピストルじゃない。屋上の鐘ですよ」  秋代ははじめて進介の方を見た。目が合うと、首を竦《すく》めるようにしてドアを閉めた。秋代は手に白いハンカチを巻いてノブを握っている。 「ここにいるほど安全な場所はありません」  と、玲は進介に言い聞かせた。 「変に疑ったり心配したりすると、聞こえないものまで聞こえてきます。見えないものまでが見えたりしては困るでしょう」  進介ははいと言い、それ以上何も言わなかった。 「部屋はここです」  玲は佐織にそう言い、二○三号室のドアを開けた。部屋の中を見たとたん、玲は悲鳴をあげた。  玲の目の前に、胴から下の人間の身体がぶら下がっていた。両足が宙に揃い、無気味に揺れている。 「誰か、呼んで——」  と、玲が叫んだ。  その瞬間、宙に浮いていた身体がどさりと落ちて来て、床の上で泳ぐ形になった。 「驚かさないで下さいよ」  と、床の上の男がぞりぞりした声で言った。 「驚いたのはこっちよ。海方《うみかた》さんじゃないの」  玲は男の顔を見て、やや落着きを取り戻したようだ。 「はい。この顔をお忘れでなく、光栄のいたり」  男はむくむくと立ち上がった。床に落ちたときどこかを打ったらしく、片足を引き摺《ず》るようにしてラグビーボール状に肥った身体をふらふらさせる。 「本当にびっくりしたわ。首でも吊ったんじゃないかと思って」  と、玲は声を荒くした。 「首吊りなどと……そんな洒落《しやれ》たことはしませんです。これでも、まだ旨い物が食べたい」 「何をしていたんですか」 「総裁の命令で、ちと、この部屋の内偵をしておりました」 「……そう言えば、海方さんは総裁の探偵になったのね」 「さよう、名誉な仕事で」 「一体、この部屋になにがあるというの」 「総裁の申されますには、天井のどこかに小穴が仕掛けられ、その小穴から、下に置いたコップの中に、毒薬がぽたりぽたりと落ちて来る、とか来ないとかを探偵して来いという——」 「それで、そんな穴があったの?」 「いや、大丈夫。そんな怪しいものはございませんでした」  海方は床に落ちていた大きなルーペをズボンのポケットに押し込んだ。 「総裁がどんな命令をしても、ここは文字原病院ですよ。勝手に他の病室へ入ってはいけません」 「ですから、そっと忍び込んだわけなのです」 「二度とこんな真似はしないでしょうね」 「はい。総裁も申しておりました。あなたの眸《ひとみ》は美しい。三兆三千億円の値打ちだそうです」 「お世辞などいいから、早く部屋に戻りなさい」  海方は進介の方を見て、玲に判らないように片目を閉じて見せた。  顔の色が青黒く、鼻が大きい、というより顔全体が鼻の感じに突き出ているから、誰が見ても海亀を連想する。その大海亀が片目を閉じると、気のせいか下瞼《したまぶた》の方が上方にせり上がるように見えた。進介に合図したようには思えない。病気で顔が引き攣《つ》れたようだった。  海方|惣稔《ふさなり》。警視庁刑事部特殊犯罪捜査課の最古参の刑事で、小湊進介は海方の部下に当たる。  二章 ベラドンナ  六月のはじめ、海方は不思議な病いに患《かか》った。  当人は自分の臍《へそ》がいい形で奥が深いためだと言うが、捜査課の中には海方の出臍《でべそ》をはっきりと目撃した証人がいる。海方の臍は決して美しくはないはずだ。海方はどうしたはずみか、その臍に雑菌を入れてしまい、それが蔓延して手術を受けなければ危険な状態になって、文字原病院の外科に入院したのだ。  手術の経過は順調だった。特犯の三河課長が見舞いに行って来て「亀さんは患部を切り取られたから、臍なしになった」と報告した。 「なんでも、手術後、人工の臍を作ってもらえるらしいんだがね。亀さん、もう臍なんか懲《こ》り懲《ご》りだと言うんで、復元を断わり臍のないまま退院するらしい」  三河課長は自分の頭に毛のないのを棚に上げて大笑いした。  海方は生来、物臭《ものぐさ》で横柄、吝嗇《りんしよく》で狡猾。海方が部屋にいるだけで、貧乏神に獲物でも狙われているような気がするから、誰にでも煙たがられる。だが、特犯では一番古い経歴を持っている上、事件が起きるとあざとく立ち廻って成績を上げる骨《こつ》を知っているので、誰も面と向かって悪く言えない。だから、こんなときでないと、三河課長も海方をからかうことができないのだ。  進介は三河に訊いた。 「一体、その文字原病院というのは、どこにあるんですか」 「遠くだね。秋川市の久地田というところ。傍に秋川が流れている」 「……大きな病院なんですか」 「開院当時は大きかったらしいんだが、今じゃもっと立派な病院が沢山ある。ベッド数があれで、三、四十かな」 「つまり……臍の専門病院とか」 「臍の専門病院なんかありますか」 「じゃ、どうして海方さんはそんな病院へ入院したんですか」 「誰もそう思うだろ。亀さんは何も言わなかったから、ずっと、謎だった。ところが、行って見てその謎が解けた。あの病院に亀さん好みの女がいた」 「……女ですか」 「ほら、田中|留美子《るみこ》。覚えているだろう。例の、輪状殺人事件のとき、勝畑病院にいた看護婦長です」  進介はびっくりした。  輪状殺人事件は進介が特犯に配属された直後に起こった怪事件で、忘れられない記憶がある。 「あれは、何年前かな」 「……もう、四年前になります」 「そうなりますか。いや、月日の経《た》つのは実に早い。そう、小湊君は奥さんとあの事件が縁で識り合いになったのでしたね」 「……恐れ入ります」 「別に今更、照れなくてもいいでしょう。亀さんじゃないが、仕事の上でも利用できるものはどんどん利用した方がいい」 「つまり……海方さんはその後の田中留美子の勤め先を知っていたんですか」 「そう。亀さんはそういう点じゃすばしっこいですからね」  留美子は四十前後、豊満な感じの独身女性だった。海方が関心を寄せていたのは知っていたが、ただそれだけとは思えない。特犯の刑事だという身分を振りかざしてなにかと利益を得る気なのだろう。と思っていると、それも少し違うようだ。 「亀さん、甚《はなは》だ怪しいですよ。何かを企んでいるみたいなんです」  と、三河が言った。 「亀さん、自分が特犯の者だ、ということを病院に伏せてある、とこう言うんです」 「……田中留美子は亀さんを知っているんでしょう」 「多分ね。留美子とはあの事件で顔見識りですからね。その留美子を抱き込んだんでしょうが、何を考えているんですか」 「じゃ、海方さんは自分を何だと言って入院しているんですか」 「それが、大笑い。日本画の大家、ですと」 「……日本画ですか」 「ええ。当人はすっかり画家気取り。ベレ帽なんか被《かぶ》ったりしていてね。それが、どうも怪しい」  それから何日かして、三河の悪い予感が当たった。  海方は自分で病院から三河に電話を掛けて来て、しばらく入院を続けたい、と言った。 「その後、回復が思わしくないんですか」  進介が心配すると、三河は渋い顔をして言った。 「なに、亀さんのことだから、あんな手術は蚊に食われたみたいなもんだ。現に、見舞いに行ったとき、手術の痕を見せられたがね、つるんとして蛙の腹みたいに綺麗だった。亀さんが言うには、あの文字原病院には、邪悪な気配がある。近く、殺人事件が起きそうだと言う」 「……殺人事件」 「亀さんははっきり断言したね。凶悪な犯罪を防止するのも、特犯の義務であるから、自分は成り行きを見ていたい。そのため、しばらくは一患者として文字原病院で見張りを続けるのだと」 「一患者……そう。海方さんは最初から画家という触れ込みで文字原病院へ入院していたんでしたね」 「どうです。凄い伏線でしょう。なかなかああはいきません」 「……海方さんが刑事ではないので相手が警戒しないわけですか」 「そう。日本画家というのは、他愛ない見栄なんかじゃなかった。亀さんはそのときから仕事をずるける気だったんだ。何だかんだと言い掛かりをつけて、ただ、病院でごろごろしていたいんだ」  三河は頭から海方の言う殺人事件の発生など信じていなかった。 「でも、病気が治れば、病院ではいつまでも入院させておかないでしょう」 「そこなんだ。亀さんは病院の外科から精神科へ移されたそうです」 「……精神科? 頭の病気ですか」 「そう。亀さん、考えたね。外科というところは斬ったはった、周りの患者が痛いの苦しいので居心地が悪いでしょう。そこに較べると、精神科は外見上は普通の人と変わらない病気を扱うところだから、仮病《けびよう》を使うのは簡単だ。もっとも、これは亀さんの発見じゃなくて、偉い人が身に危険を感じると、大抵精神科へ逃げ込む。それを見習ったんだろう」 「どんな仮病を使う気なんでしょう」 「早年性|阿呆《あほう》……じゃない。そう、早年性突発性|痴呆《ちほう》。自分から早年性と決めるところなんか、亀さん、憎いでしょう。臍を喪失したショックで病気が現れたんですと。急性だから治るのも早い。いい時分を見計らって正常になり、退院する、どうです」  海方はかなり楽天家だった。楽天家だから、あくせくするのは嫌いで、計画はいつも大雑把《おおざつぱ》だ。 「うまくいくんでしょうかね」  と、進介が心配した。 「亀さんのことだから、失敗してもびくともしませんよ。それに、文字原病院は元元、精神科が土台で、その筋じゃ古手で有名らしい。亀さん、それを承知で、文字原病院を選んだんじゃないかと思うんです」 「しかし、海方さんがその病院で殺人事件が起こると言ったからには、何か根拠があるんですか」 「そう。それが、本当だとすると、ちょっと厄介なんです」  海方の話によると、何者かが、市販の缶入り飲料水の中身をそっくり入れ換えることができるのだ、と言う。しかも、缶の外見には全く加工した痕跡がない。 「缶そのものに傷を付けず、中身の飲料水を取り出して、別の液体を詰めることができるんだそうです。亀さんが実物を見て、これは人間業とは思えない。こんなことが可能なら、毒物が混入されても外からは絶対に見分けが付かないから、社会的な問題に発展するはずだ、とこう言います」  確かに、それが異常な犯罪者の手で、毒入り缶飲料水が無差別に市場へ出廻るようになったとしたら事は重大である。 「本当に缶を加工せずに中身を取り換えられるんですか」 「そんなことは論理的に不可能です。嘘でしょ」 「しかし……嘘ならずいぶん粗末な嘘ですね」 「亀さんの頭は大体、そんな風なんです。よく知っているでしょう」 「それは……まあ」 「それが亀さんの憎めないところでもあるんですが、どんな細工をして来るかが見物《みもの》ですね」 「細工……というと?」 「その話を聞いてね、それなら実物がぜひ見たい、と言ってやったんです」 「嘘なら海方さんが困りますね」 「ところがね、さすが亀さんです。犯人が使用した缶を入手した。これから特犯にその缶を届けると宣言しましたよ」 「海方さんが?」 「いや、入院患者がひょこひょこ外出するわけにはいかない。亀さんの奥さんが見舞いに来るはずだから、缶はその奥さんに手渡して届けさせるんだそうですがね」  三河はここで禿げた頭に手を置き、 「私はどうもあの真田虫《さなだむし》みたいな奥さんが苦手でね。ちょっと部屋を外《はず》しますから、小湊君、適当に扱ってやって下さい」  と、どこかへ行ってしまった。  それからすぐ、特犯の部屋に、海方の妻、富士子が入って来た。  進介は何度か富士子と会っているが、その印象はことごとく悪い。器量も相当なもので、初対面は三鷹にある海方の家だったが、夜中に寝ていたところを起こされて出て来て、ぼさぼさの髪を逆立《さかだ》てていたから、河童《かつぱ》の化物にしか見えなかった。  後で海方は、 「ああいう器量だから、夫をずいぶん大切にすると思ったんだ。ところが、あの女は自分の顔を妙だとは夢にも思わない。逆に美人の部類に入れているから恐ろしい」  と、言った。  亀の妻なら鶴と言いたいのだが、とても鶴にはほど遠く、富士子はアヒルみたいな足取りで特犯の部屋に入って来ると、三白眼であたりを見廻し、進介の傍に寄って来た。 「課長さんは?」  悪寒《おかん》を催すような嫌な声だった。三河が逃げて行った気持が判る。 「ちょっと今席を外しています」  進介は丁寧に言った。富士子はにこりともしない。 「そんなこと言われなくても判るよ。席にいないんだから」 「……海方さんの用件でしたら、僕が伺っておきます」 「話は通じているんだね」 「はい」 「それを早く言うんだ。そのために見たくもない臍なしの顔を見て来た」  富士子は大きなトカゲのバッグの中から、白いハンカチに包んだ物を取り出した。 「これを届けてくれと頼まれたんだよ」 「確かに、お預りします」  進介は包みを受け取った。 「なんでも、指紋が付いている物だから、そのつもりで取り扱うようにと言っていたよ」  と、富士子は付け加えた。  進介は手袋をしてハンカチの結び目を解いた。  中から出て来たのは、口を開けた清涼飲料水の缶と、十何枚かの写真だった。  飲料水は商品名「ベラドリンコ」、ノアボトリング社の製品だった。アルミ缶には淡紫色の地に魔法使いの少女が箒《ほうき》にまたがって空を飛んでいるイラストが印刷されている。缶は空だったが、引き取られた口金が一緒にハンカチの中に入っている。  進介は一通り缶の周囲を見たが、ごく普通の清涼飲料水の缶で、特に異状があるとは思えなかった。強《し》いて言えば、ベラドリンコというのはあまり耳にしない銘柄だ。  富士子の方は缶と一緒にハンカチに包まれていた写真に興味を持ったようだった。遠くからモノクロのプリントを見ていて、 「おや、あ奴、いつからナルシストになったんだろう」  と、首を捻った。  進介がはじめて見る、海方の若い頃の写真だった。驚いたことに、海方は痩身の二枚目でブロマイドの人気スターのようにそっくり返っている。 「これ、海方さんですか」  と、進介は富士子に訊いた。 「そう。亀のこだ」 「……海方さん、美男子だったんですねえ」  富士子がせせら笑った。 「まあね。今より多少は見てくれがよかったが、そんなもんだ」 「いや、相当なものですよ」 「あんたは昔のあたしを知らないからそう言う。言いたかないが、あたしの若い頃はこんな亀のこは不釣合なほど美人だった」 「なるほど……」 「しかし、気味の悪い男だね。そんな写真を何枚もプリントしたりして。夜中に抱いて寝るんだろうか」  進介が写真の裏を返して見て、その意味が判った。どの写真にも、鉛筆で人の名が印されているのだ。  文字原《もじはら》弘一、田中留美子、笹木正雄、花住玲、福岡勝平、鈴木久助、百田《ももた》金之助、楽|修《おさむ》、早崎珊瑚、早崎桃子、和多本秋代、力松智彦《りきまつともひこ》、双橋《もろはし》哲夫、犬山米穀店、海方|惣稔《ふさなり》。  文字原病院の関係者と、入院患者の名らしい。とすると、この写真は海方が採取した指紋カードなのだ。  海方のことだから、勿論、昔の自分の姿を誰彼となく見せたい気持もあって、と同時に相手の指紋を採取してしまう方法を考えたのだ。 「えへん、これが若い頃の私。ちょっとしたものでしょう」  などと言いながら、その写真を相手に手渡して見せる。誰もいなくなったところで、その写真の裏に相手の名を書き付けている海方の姿が見えるようだ。  ということは、海方はまだ問題のベラドリンコが誰の手から自分のところに渡って来たのか知らないとみえる。海方は何の疑いもなく缶の口を取ったところ、中からベラドリンコと全く違う飲み物が出て来たのでびっくりし、周りにいる人たちの指紋を採取する気になったのだ。無精《ぶしよう》な海方を動かすほど、それは不可解な現象だった。 「一体、何を企んでいるんだろうね。あの佯狂《ようきよう》は」  と、富士子が言った。 「……ヨウキョウ?」 「知らないのかい」 「はあ」 「全く、今の若い者は言葉を知らないねえ。贋《にせ》の狂人のことを佯狂と言うんだよ。覚えておき」 「……はい」 「医者は臍なしのことを早年性突発性痴呆と説明してくれたんだが、なに、あたしが見りゃ、すぐ、嘘だと判った」 「海方さんは奥さんにも自分は——佯狂だと教えなかったんですか」 「ああ。敵を欺《あざむ》くには味方からと思っているんだろう。でも、奴から来てくれと電話が掛かって来たときは、てっきり痴呆は本物かと思ったね。どんなに困ったって、これまで奴がそんな電話を掛けて来たことなんか一度だってなかった。もし、本物の痴呆だったら、いい折だからあの貧乏神を家から叩き出してやろうと思ったんだ」 「……言うことが凄いな」 「そうして顔を見に行ったら、なんのことはない、ただの佯狂さ。でも、奴は変に真面目で、さるお方からご霊物《れいぶつ》を賜った。これを、特犯の三河課長殿のところへ持って行くように。これを毎朝頂くと、三河殿の頭に毛髪が蘇《よみがえ》るであろう。などと言ってこの包みを渡したものさ。冗談じゃあねえや。自分の臍の始末もできなかった癖に」 「恐れ入ります」 「あんたが恐れ入らなくたっていい。こんな物はご霊物でもなんでもなくって、只の空缶と写真じゃないか」 「そのようですね」 「つまり、自分が本物の痴呆だということを特犯の三河さんに知らせたかったんだ」 「……普通の人ならこんな真似はしませんね」 「それにしても、空缶と写真とは世古《せこ》い手だ。もっと手の混んだことができないのかね」 「だから、可愛い、と言う人がいます」 「それにあの病院の看護婦長が怪しい。亀のこはあの女と前に会ったことがあるね」 「……さあ」 「惚《とぼ》けるんじゃない。まだ若いのに亀と同じ穴のムジナになりなさんなよ。判ってるんだ。また、いつもの怠け癖がはじまったんだ。家でごろごろしていりゃあ、なにかとこき使われると思ったんだ。病院なら上げ膳据え膳、若い看護婦が世話を焼いてくれる。ところで、あんたも気を付けなくちゃいけないよ」 「僕が?」 「そう。奴はしきりに特犯のことを気にしていたからね。最近、ここの課は閑《ひま》かね」 「閑、というわけにはいきませんが、しばらく大きな事件は扱っていません」 「そうかい。すると、さしずめ、あんたなんか病院へ呼び出されるかもしれないよ」 「……僕に用があるんですか」 「ああ。奴がごろごろしているのが好きでも、退屈するころだからね。相手が欲しいと思うんだ」 「僕が病院へ行って、話相手をするんですか」 「そう。あんたも佯狂になるわけね。妙な二人椀久《ににんわんきゆう》ができあがるよ」 「……僕も痴呆の真似をするんですか」 「いや、あんたはまだ若いから、耄碌《もうろく》じゃおかしい。その柄では、まず、狂信者かな。真面目な仕事熱心に多いんだってね。一つの新興宗教に凝り固まるのよ。閑さえあれば神様を拝んでいる。そのうち、仕事を疎《おろそ》かにしてまで信心に夢中になる。それを諭《さと》す人がいると暴力を振い、誰彼の見境いもなく教団に引き込もうとする。たまりかねた奥さんが、文字原病院の精神科へ行って、あんたを入院させてしまう」 「……参ったな」 「上司の命令だから仕方がないでしょう。あたし、奴の考えていることは顔を見るだけで判ってしまうんですからね」  どう考えても富士子の方が海方より役者が一枚上らしい。  帰り際、富士子は病院から警視庁までのタクシーの領収書を出し、進介に伝票を書かせた。  海方から届けられたベラドリンコの空缶と写真を持って、進介は鑑識課指紋係に判別を依頼した。  指紋係はベラドリンコの缶から、すぐいくつかの指紋を採取した。それを、海方の写真に付着している指紋と照合したところ、二種類の共通する指紋があった。  その一つは海方のもので、残る一つは早崎桃子。  ベラドリンコは早崎桃子という女性の手を経て、海方に渡された事実があぶり出されたわけだ。  進介はその足で、科学捜査研究所へ行った。  進介から事情を聞いた技官は、缶が再加工されているかどうかはノクトビジョンにかければすぐ判る、と説明した。 「これは自慢の新兵器でしてね。その物に赤外線を当ててその反射を調べるのです。改竄《かいざん》された小切手や帳簿を発見するだけでなく、領収書やパスポートなどの抹消文字まで解読することができます」  進介が持って来たベラドリンコの缶はノクトビジョンにかけられた。その結果、缶本体には何も手が加えられていないことが判明した。  技官は次に引き取られた缶の口と、口金とを調べた。拡大器に映し出された二つの切口はぴったりと重なり合い、全てが一致していて、完全に密閉された缶から、口金が取られた状態だと判った。 「この状態で、異物を缶の中に入れたり、中身を取り換えたりできるとは信じられませんね。その人は勘違いをしているのと違いますか。すでに口が開いていたのに、自分の手で開けた、と錯覚するような」  と、技官が言った。  新兵器で缶に異状がないと証明されたとすると、矢張り海方の嘘だという答だけが残るが、進介は海方を疑えなかった。 「この異状に気付いたのは信用できる人なんですがね」  と、進介は言った。 「じゃ、製造過程で何かが起こったとしか考えられませんね。もっとも、こういう工場は完全なオートメーションだと思いますから、個人の手が加えられるとは思えませんがね」  進介はそれでもベラドリンコを製造したノアボトリング社の工場を見に行くことにした。  科研の技官が言った通り、工場内の缶詰めの工程はオートメーションで、埃《ほこり》を嫌うためかガラス張り。粛然とさえ感じられる機械の動きと次次と生産される缶の行列を見ていると、何かが紛《まぎ》れ込むなどとは思えない。進介を案内した工場の係長の話だと、機械の操作や監視も全てガラスの外で行なわれている。万一、誰かがその中に入ればすぐ非常のブザーが鳴って赤ランプが点滅する、と言い、 「内《うち》の製品になにかおかしな点でも?」  と、進介に訊いた。 「いや……そうではないのですが、今見ていると、作られているのはノアコーラですね」 「ええ。ノアコーラは内の製品の六○パーセントを占めています」 「ベラドリンコもこの工場で作っているんですか」 「ええ、レモンサイダー風の飲料水です。ベラドリンコはここで作っていましたが、少し前に製造中止になっています」  進介はそのことに興味を持った。係長は製造中止になったのは、売れ行きが芳《かんば》しくなかったからだ、と説明した。 「もっとも、製造しなくなったのは最近ですから、まだベラドリンコは市場に出廻っていますよ」 「……回収はしないのですね」 「勿論です。別に不良製品というわけじゃありませんから」 「なぜ、成績がよくなかったんでしょう」 「……味の問題、缶の体裁、宣伝、いろいろあってとても難かしいですね」 「ベラドリンコとは、ユニークな商品名だと思いますけど」 「そう、私たちもその名に期待するところが多かったんですが、見事に思惑を外されました」 「ベラドリンコというと、ベラドンナを連想しますね」 「そうなんです。ベラドンナ、漢名を曼陀羅華《まんだらげ》。江戸時代、華岡青洲《はなおかせいしゆう》が世界ではじめて麻酔による手術に成功した、そのときの薬が、ベラドンナから作られたのです。西洋でベラドンナとは〈美しい貴婦人〉の意味、イタリア語でマドンナですか。曼陀羅華の草の汁を一滴点眼しますと、瞳が大きく輝くんです。その草の主成分がアトロピンとスコポラミンです」 「……なるほど、ベラドリンコには瞳が美しくなる薬が入っているんですか」 「いや、ベラドリンコはただの清涼飲料ですから薬物は入っていません。イメージとしてですね、美しい貴婦人を連想させる名が付けられたんです。アトロピンは半数致死量○・一グラムの毒薬ですから」 「美しいものには死が隠されているわけですか」 「私なんかはベラドンナという言葉に、中世の神秘な響きを感じる。魅惑的な名だと思うんですが、若い人たちには、どうもそうしたイメージを引き起こさないようですね。売るということは全く、難かしいものです」  それを聞いて、進介はベラドリンコへ実際にベラドンナを加え、瞳を美しくさせると宣伝したら売れるに違いない、と思った。  後で調べてみると、アトロピンはチョウセンアサガオの中に含まれている。チョウセンアサガオは一名、曼陀羅華と言い、アメリカが原産。今では本邦各地に自生する一年草で、葉は卵形の波状歯縁で淡紫色の花を咲かせる。アトロピンの中毒症状は、外分泌の減少、嚥下《えんか》困難、瞳孔散大して幻覚を生じる。重症になると全身|痙攣《けいれん》、眼球突出などを起こし一時間以内に呼吸停止によって死亡する、という。  進介が特犯の部屋に戻ると、三河課長が浮かない顔をしていた。 「亀さんの奥方は偉い人だね。あの亀さんの頭の中を何もかもお見通しだ。実に、頭が下がるよ」  進介も嫌な予感がした。 「すると、海方さんがまた何か言って来たんですか」 「そう。小湊君、君の協力がぜひとも必要なんだと電話を掛けて来た」 「……僕も入院するんですか」 「そう。ちょうど、精神科の個室が空いているそうだ。君にそこへ入ってくれと言っている」 「つまり、新興宗教の狂信者の佯狂になるわけですか」 「佯狂——君は若いのに適切な言葉を知っているね」 「いや、さっき海方さんの奥さんから教わったばかりです」 「そうでしたか。いや大した奥方ですよ。あれでもう少しだけ器量がどうにかなっていると——いや、そんなことはどうでもいいんだが、亀さんが言うには、警察の人間が入院して来たとなると、犯人は警戒心を強くするので工合が悪い。幸い文字原病院の看護婦長は昔、小湊君の奥さんと同僚だったから、うまく頼み込んで、特犯に勤めていることを伏せ、すぐ君を文字原病院へ入院する手続きを取ってくれ、とこう言う」 「……僕は海方さんみたいに芝居が上手じゃないんですがね」 「そう。本職の役者だって亀さんの芝居には敵《かな》わないでしょうよ。まあ、気がおかしければ分裂病でも躁欝《そううつ》病でもなんでも構わない。けれども、まあ、小湊君なら狂信者あたりが手頃だろう、とね」 「……驚いたな。さっき、奥さんもそう言っていました」 「君も厄落としだと思うんだな。早速、奥さんに言ってその婦長と連絡を取ってくれないか」 「……一体、文字原病院に何が起こったんですか」 「それがね。さっき亀さんは毒薬のようなものを飲まされそうになったと言うんです」  海方が進介を病院に呼び寄せる口実だけとしたら、嘘が大きすぎる。進介は真剣になった。 「海方さんは病院で、殺されそうになるようなことでもしたんですか」 「いや、心当たりは一つもないそうです。亀さんは早年性痴呆ですからね。ただ、とんちんかんなことをしてにこにこしているだけ。人を傷付けたり人から怨まれたりするわけがないんです」 「でも、精神科には変わった人が集まっているんでしょう」 「そう。それは確かにそうなんですけど、亀さんに一服盛った手口が、素敵に巧妙だった。だから、とても狂人の仕業だとは思えないのだそうです。さすがの亀さんも人目を気にしながら公衆電話を掛けて来て、長くは喋っていられない。精しいことはよく判らないんですが、そうまで言われて放っては置けないでしょう」 「海方さんが手に入れたベラドリンコの缶について、何か言っていましたか」 「そう。あれは犯人の挑戦状に違いないと、ね」 「……挑戦状?」 「つまり、どういうわけか犯人は亀さんが特犯の人間だということを知ってしまい、挑戦状を突き付けた。どうだ、自分は市販の缶ジュースに傷を付けず異物を入れることができるんだぞ、とね」 「…………」 「そして、特犯に連絡を取りはじめた亀さんを見て、まず、邪魔になる者から消そうと考える。どうです?」 「……科研ではあのベラドリンコの缶に傷はない、と言っていました」 「亀さんの言葉が嘘でなければ、完全犯罪の気配ですよ。亀さんに万一のことがあっては特犯の面目が立たない。とにかく、君は入院の準備をして下さい」  それが、六月七日のことだ。  進介が帰宅して入院しなければならなくなったと話すと、佐織は海方の身の上を本気で心配した。佐織は数少ない海方の崇拝者だった。  三章 メントール  進介の病室で探偵をしていたという海方がいなくなると、看護婦の玲は、 「あの人を気にしないで下さい。本物の探偵なんかじゃないんですから」  と、進介に言った。 「他人の部屋を嗅ぎ廻るなんて、嫌な奴だ」 「もう、大丈夫。わたしの方から厳重に注意します」 「注意したぐらいで聞き分ける奴なんですか」 「ええ。海方さんは総裁の命令だと言っていたでしょう。総裁はわたしの言い付けなら、なんでも聞きます」 「……総裁というと、どういう総裁なんですか」 「世界銀行の総裁。でもびっくりするほどのことはないわ。自分でそう信じているだけですから」  玲はそう説明して、佐織に向かい、面会時間は四時迄なので、それまでに帰るように言い、進介には食事時間が六時から七時の間、食堂で自由に済ませるように教えた。  患者を必要以上に拘束しないのが、文字原病院の治療法らしい。ただし入院の当座は読書やラジオを避け、投薬を受けながらただ安静にし、医師はスピーチクリニックを与える。そして、相手の様子を見ながら、患者に軽い運動や簡単な手仕事を与えていく。  玲が部屋を出て行くと、佐織は不安そうな顔をした。 「あの看護婦さんは、いつも平気な顔で気にしないで下さいなんて言うけど、わたしはびっくりし通しだったわ」 「……そりゃ、普通の病院じゃないからね」 「海方さんだって、なにも聞かされていなかったら、本物の痴呆《ちほう》かと思うわよ」 「なんだか、楽しんでいるみたいにも見えた」 「それより、ここの玄関で、見た?」 「……女の人がワゴン車の前に飛び出して来て、轢《ひ》かれそうになった」 「そうじゃないのよ。あの人、一緒にいた女の子に突き飛ばされたのよ」 「真逆《まさか》——」 「いいえ、そうなの。わたしにはそう見えたの」 「あのとき、君が声を掛けたものだから、後の車に気を取られていた……」 「わたしはあなたの腕を取って道の傍に引き寄せてもう大丈夫と思ったから前の方を見たの。そうしたら、あの人もわたしの声で気になったんでしょう。こっちを見ていた。あの女の子はその背中を力一杯突き飛ばしたように見えた。凄い顔をして」 「……そう言えば、あの人の怯え方は普通じゃなかった」 「あなたはすぐワゴン車に組み付いてしまうし、すぐ、あの二人はいなくなったし、わたしたちがここへ来た理由も考えると、その場で言えなかったの」 「……そんなことがあったのか。いや、着いた早早、変なストリーキングには出会うし、撞《つ》かれないはずの鐘の音が聞こえるし、確かにここは普通じゃない。海方さんは病室に戻ったかな」  進介はポケットから小型ラジオを取り出し、アンテナを立てて、チューニングダイヤルを動かした。すぐ、ラジオのスピーカーから海方の呑気《のんき》な鼻唄みたいな声が聞こえてきた。進介はラジオにイヤホーンを取り付け、今度は腕時計のアンテナを引き出す。このデジタル時計は送信器が内蔵されている。進介は送信器用のスイッチを入れ、時計のマイクに話し掛けた。 「海方さん、今、いいですか」  すぐ、海方の声が返って来た。 「おう、小湊君か。ちょうどよかった。今、昼飯を食いに行こうと思っていたところだ。だが、ちと、音が割れているの。なにか喋っていてくれないか」  進介がマイクに向かって適当なことを言っていると、海方は自分の受信器を再調整したらしい。しばらくすると、オーケーという声が聞こえた。 「やあ、ご苦労。だが、相変わらず肩に力が入りすぎているな」 「……そんなことが判るんですか」 「それは判る。さっき、病院の玄関前で米屋の車に飛び掛かったろう。あれは、やり過ぎだ」 「見ていたんですか」 「ああ。俺でよかった。もし、医者に見られたら、これは危険人物だと、監禁されてしまうぞ。それに較べると、佐織君は美事。狂信者の夫を持った妻の役は、百点満点だったな」 「……じゃ、海方さんは最初を知らないんですか」 「最初? なんだ、最初とか尻尾《しつぽ》があったのか」 「玄関に二人連れの女性が立っていて、女の子の方が相手を突き飛ばし、それで轢かれそうになったらしい、と佐織は言います」 「そりゃ……」  海方は言葉を詰まらせた。 「その女の子は僕の部屋の前に入院している、早崎珊瑚という子です。今、部屋に入るとき、ドアの隙間からこっちを見ていました」 「あの、珊瑚ちゃんがねえ」 「珊瑚に突き飛ばされたのは、長いウエーブヘアで女盛りといった感じの人です」 「うん……それなら、多分、珊瑚ちゃんの母親だ。もっとも生みの母じゃなくて、珊瑚ちゃんの父親のところへ来た後妻で桃子という名だが」 「僕はその瞬間は見ていなかったんです。佐織の目だけでは確かにそうしたと言い切れませんが」 「それなら確かだ。佐織君はしっかり者だ」  海方は若い女性になるといつも点を甘くする。 「それから、問題のベラドリンコの缶ですが、鑑識に持って行って、指紋が判りました」 「何と出た?」 「あの缶には海方さんが写真で採取した、二人分の指紋が残っていました」 「誰のだ?」 「それは、海方さんと早崎桃子の指紋です」 「なるほどな。あれは自動販売機についでがあるというんで、桃子に買って来てもらったものだ。で、缶の方はどうだった。どんな方法で缶に穴を開けたんだ」 「あの缶にはどこにも手を加えた痕はありませんでしたよ」 「それは見た目だろう。どこかに、穴を開けて塞《ふさ》いだところがあるはずだ」 「いえ、鑑識は完全に元の状態だ、と言いました」 「機械にかけたのか」 「ええ。ノクトビジョンで」 「……あの機械なら間違いはねえの」 「ついでに、ノアボトリング社の工場に行って、缶詰めの工程を見て来ました。そこは完全なオートメーションで、そこで細工をするのは不可能です」 「とすると、面妖だろう」  海方は満足そうに言った。 「一体、ベラドリンコの缶に何が入っていたんですか」 「コーラだった。ベラドリンコの栓を開けてコップに注ぐとコーラが出て来た。缶に直接口を付けるのは育ちのよくねえ者のすることでな」 「海方さんが飲んだのは本当にコーラだったんですか」 「おい、俺の舌の上等なのを忘れたのか。サイダーとコーラを間違えるほど安く出来ちゃいねえ。しかし、困ったな。あの缶が細工されていなかったとすると、特犯じゃ俺がいい加減なことを言っていると思うだろう」 「でしょうね」 「そりゃあ俺の信用に……もっとも特犯でそう信用されているとも思えねえが」 「僕は信用しますよ」 「そのうち、あまり信用しねえ方がいいと思うようになるだろう」 「海方さんが直接買ったんじゃないんでしたね」 「そう。今言ったように、買って来てくれたのは早崎桃子だ。珊瑚ちゃんに牛乳を飲ませるというんで、よく販売機を使う」 「じゃ、販売機からそのまま海方さんに渡ったものかどうか事情を訊きましょうか」  海方は二、三度鼻を鳴らし、元の曖昧《あいまい》な口調に戻った。 「まあ、あまり気張らずに、のんびりとやろうや。桃子を疑って気を悪くさせるといけねえ」 「そんなのんびりしていていいんですか。海方さんは誰かから命を狙われているんでしょう」 「なんの。確かに変な物は飲まされたが、別に毒薬じゃなかった。その証拠にご覧の通り生きてる」 「でも、そのために僕が呼び出されたんでしょう」 「ああ。それもある」 「それも、と言うと、矢張り海方さんは退屈だったんですか」 「……誰がそんなことを言った」 「海方さんの奥さんです」  海方の喉が、ぐうっと鳴ったような音が聞こえた。 「全く……あの女だけにゃ敵《かな》わねえ。腹の中までお見通しだ。せっかく臍《へそ》を塞いだ甲斐《かい》もねえ」 「……ご愁傷さまです」 「ばか。病院で悔みなど言うな。今度のことじゃ、君の立場も考えてのことだったんだぞ」 「……休養を取らせてやる意味なんですか」 「そう。佐織君にまだあの兆《きざ》しがねえのと違うか」 「……あの?」 「相変らず勘が鈍いの。新婚夫婦が四年も過ぎて兆すと言や、そのことしかねえ」 「それなら、まだです」 「それ見ねえ。まあ、好いた同士だから仕方がねえが、ちょこちょこ小競《こぜ》り合《あ》いをするよりは、力をためておいてどかんと放った方が効果があがる」 「……そのために、僕を病院へ隔離したんですか」 「まあ、俺の親心が判りゃ、それでいい」  海方の押し付けがましい言い方は毎度のことだ。あまり、感謝の気持も起こらない。進介の関心は別のところでくすぶっていた。 「特犯の三河さんは、海方さんが凶悪犯の挑戦を受けた、と言っていましたよ」 「それは確かにそう言った。だがの、ありゃ例の、愛敬に尾鰭《おひれ》をちょいと付けてみた、って奴だ。嬶《かか》あのお見通しどおり、ちと、退屈だったからの。あのベラドリンコの缶にしたところ、特犯で調べりゃすぐ細工が判るものと思っていた。缶にそんな細工がなかったとすると……面白かろう」 「少し前、屋根にある鐘が鳴ったでしょう」 「ああ、聞いた」  海方の声は急にそわそわと落着かなくなった。 「二、三日前から鐘を撞くようになったんだ。朝、昼、晩の三度。食事の報《し》らせだ。君は昼飯をどうした」 「済ませて来ました」 「そりゃ、惜しいことをした。この病院の料理はちょっとよそとは違う」  海方は昼食の方に気が行ってしまったようだ。 「僕の傍にいた花住玲という看護婦は何も聞こえなかったと白《しら》を切り通しました」 「そうか。これから、この病院にゃ何が起こるか判らねえ。面白えな。ま、ちょっと待て。とにかく飯を食って来る。話はそれからだ」  イヤホーンがかちりと言い、すぐ何も聞こえなくなった。 「海方さん、僕が突っ込むものだから食堂へ逃げて行った」  と、進介が佐織に言った。 「海方さんの奥さんが思った通り、海方さんはただ怠けていたかったらしい。よく考えるとベラドリンコの一件だって、本気で信用できないような気がする」 「怠けたいのだったらきちんと休暇を取って、保養すればいいのに」  と、佐織が言った。 「いや、きちんとしたんじゃ、ずるけることにならない。海方さんは働くような働かないような、ぼんやりしているようで神経が張り詰めているような、曖昧模糊《あいまいもこ》とした状態が好きなんだ」 「そうだとすると、かなり高級な思想ね」 「……高級かな」 「そうよ。太公望の心境だわ。傍目《はため》にはぼんやり釣をしているように見えて、いつも大きなことを考えている」 「そりゃ、買被《かいかぶ》りだよ。長く付き合っているけれど、どうも只の怠け者にしか見えないときがある」 「そこが、大物の証拠よ」 「それにしても、海方さんは全く動く気はないみたいだ」 「そうなの」 「僕に向かって、しきりに面白いだろうと言っていた。あれは、面倒なことが起こったら、何でも僕に押し付けてしまおうという魂胆なんだ」  そのとき、病院のドアがノックされた。進介は慌ててラジオをベッドの下に押し込んだ。  すぐ、ドアが開いた。来訪者がすぐ進介を見ないよう、佐織が身体で遮蔽してくれている。 「さっき、玄関であなた達の姿を見たわ。でも、ちょっと手の離せないことをしていたものだから」  と、田中留美子が言った。  四年ぶりに見る留美子に、進介は自分の目を疑った。留美子が昔より美しくなった、と佐織から聞かされていたが、想像以上だった。元元、豊満な色彩感の強い女性で、海方がすっかり気に入ってしまい、あれからも留美子の面影が忘れられず、自分が発病したとき留美子が勤めている病院で治療する気になったのだ。進介の記憶では、以前の留美子には見方によってやや垢抜けしないうらみがあったが、今、目の前の留美子は色彩に品位が加わり、まともに視線を向けられないほどだった。 「田中留美子さん、覚えているでしょう」  と、佐織が言った。進介は顔を面のように作り、首を振った。 「そうでしょうね。わたし、すっかり年を取ってしまったから」  と、留美子が言った。 「あれから、四年も経《た》つのだから無理もないけれど、逢えてよかった。もう少し後だったら擦《す》れ違いになるところだったわ」 「……じゃ、ここを辞めることになっていたの」  と、佐織が訊いた。 「結婚?」  留美子は笑って首を振った。 「そのうち話すけど、ちょっと事情があってね」 「それは……近いうち?」 「ええ。でも、ここを辞めたらしばらく働かないつもりだから、小湊さんが良くなるまでいようかしら」  留美子はそう言って進介を見た。引き込まれそうになる笑顔だったが、進介は表情を変えないで言った。 「いえ、僕はそんな重病でないので、気にする必要はありません」  佐織は好意をはぐらかした進介に非難めいたことを言った。留美子は進介の目をじっと見た。 「あなたにだったら、判るかもしれない。専門家だから」 「……なんでしょう」 「人の中傷とか、流言、そんなことを調査したことがありませんか」 「……そうですね。ときどき、おかしな噂を追うときがあります。その全部の出所が突き止められる、というわけにはいきませんがね。何か、変な噂でも拡がっているんですか」 「ええ。近ごろ、患者の間でささやかれているんです。それが、夜になると、病院の暗がりに、目の光っている幽霊が出没する、という噂です」 「……幽霊ですか」 「ええ。病院というところは、怪談めいた話は付きものでしょう。院長も言っていましたけれど、戦時中は戦死者の霊、戦後になると傷病兵士の霊などが出る噂があって、最近ではホラーばやりだから目の光る霊というんでしょう」 「その噂の出所を僕に?」 「入院しているあなたに頼むわけじゃないんですけど、何か心当たりがあったら教えて下さい」 「判りました。誰にも気付かれないように調べればいいんでしょう」 「でも、間違いのないようにね。これは病院の依頼じゃないんですよ。わたしとあなたとの個人的な話」 「その幽霊というのは、男ですか女ですか」 「今、わたしが言った以上のことは何も判らないんです。ただ、目の光る幽霊、それだけ。勿論、根も葉もないことだとは思うんですけど」 「いや、火のない所に煙は立たない、と言います。つまらないことでも、種はあるはずです」 「勿論、ここではあなたの気持が落着くことが第一。先生の言うことをよく守って、今の話は頭の片隅に止めておくだけにして下さい」  留美子はそれから佐織と軽い雑談をして部屋から出て行った。  佐織はスーツケースの中から下着や手拭を出しながら進介に言った。 「凄く綺麗になったでしょう」 「……そうかな」 「そうよ。恋でもしているみたい」 「あの人、前はどうだった?」 「男運に恵まれなかった人なの。最初の結婚では半年で相手と別れて、次の男には欺されて、かなり経ってからそれが家庭を持っている男だと判ったりして」 「それで、恋する度に美しくなっていくんだ」 「そうなの。あの人はそういう女性よ」 「……しかし、妙なことを頼まれた」 「まるで、患者扱いしなかったわね。もしかして、あなたが仮病なのを見抜いてしまったのかしら」 「いや、これも、一種の治療だと思う。この病院は心因反応の患者を特別扱いしないんだ。患者が自《みずか》ら目的を持ったり、やる気を起こさせたりするように仕向けているんだ」 「それならいいけど……うまくやってよ。わたし留美子さんに変な嘘を言っていると思うと気まずいわ」 「それより、ロビーの自動販売機でベラドリンコを売っていた。一つ買って来てくれないか」  佐織はすぐ部屋を出て行き、ベラドリンコの缶を持って来た。これが販売機にあった最後のベラドリンコらしく、缶が出るとすぐ「売切」の表示が出た、という。ノアボトリング社の工場係長が言った、ベラドリンコは製造中止になったという説明とよく一致する。進介は、最後の一缶でも手に入ってよかった、と思った。  進介は注意深く缶を見渡した。海方が特犯に届けた缶と同じデザインだが、どこにも異状はなく、このまま中身をコーラと入れ換えるなど、全く不可能に思えた。進介は注意深く缶の栓を開け中身をコップに移した。レモン色の発泡飲料水だった。味は酸味と甘味のあるさっぱりしたソーダで、特に注意を引くというところもない。 「君は反対するだろうが、これに関する限り、どうも海方さんが信用できなくなった」  と、進介は佐織に言った。  しばらくすると、ラジオのイヤホーンががさがさ言った。  進介がイヤホーンをすると、いかにも満腹した海方の鼻唄が聞こえて来た。海方は最近「ゆう子|時雨《しぐれ》」一点張りで、しかもいつも同じところで調子を外《はず》す。 「食事は済みましたか」  と、進介はアンテナに言った。 「おう、小湊君か。話の途中で済まなかった。いや、今日のメニューはビール牛のストロガノフにバターライス添え。カロリー量を控えてあるはずだが味は薄手じゃない。いや、そんなことはどうでもいいが、総裁と話をしていてつい遅くなった」 「……総裁?」 「ここじゃ、総裁という名で通っている男だ」 「ああ、世界銀行の総裁ですか」 「知ってたか」 「さっき、鈴木という年寄りから聞きました。なにかあるんですか」 「うん、銀行の総裁のくせに話す数字が全部でたらめという面白い男だ。これから、世界銀行の総会に出席しなきゃならない。ひょんなことから妙な男に気に入られてな。俺は総裁付きの探偵になった」  海方は真面目な声でそう言った。 「つまり、探偵という名目だと、いろいろなところに出入りし易い、ということですか」 「いや、そんな打算的なことじゃねえんだ。総裁付きの探偵になっているとな、ちょいちょいお零《こぼ》れに与《あずか》るから得だ」  それが打算的でなくて、何が打算的なのだろう。海方は続けた。 「総裁の話が出たから、ついでにこの棟の入院患者を紹介しておこう」 「奥さんが特犯に届けてきた指紋で、名だけは覚えておきました」 「それなら判りが早い。まず、最初が今の総裁だ。本名は百田《ももた》金之助。年齢は六十前後かな。一番長くここに入院している患者で、一番の大金持。俗に言う誇大妄想狂。専門的に空想虚言者と呼ぶ学者もいるらしい。とにかく、自分を大金持だと信じて疑わない。世界銀行の紙幣を一手に発行して、これがここでは通用するからなかなか便利だ」 「相当なものですね」 「なに、そんなのは序の口さ。総裁の志は極めて高いぞ。近い内、その財力を使って各国を買い潰し、自分は世界の帝王の座に就《つ》くことになっている。そうなると、俺はさしずめ日本国の警視総監かな。当然、君も取り立ててやる。三河課長など糞を食らえ、だ」  ばかばかしくて礼を言う気にもならない。 「総裁は今、二○九号室の総裁室に住んでいる。知っているな。ナースステーションに一番近い部屋だ」 「はい。名札が出ていました」 「その総裁室の前、二一○号室には力松智彦《りきまつともひこ》という男が入院している。これは夢遊病だという。この男は三十前後で、目鼻立ちの大きな、がっしりした体格の働き盛りだが、全くの見掛け倒しで自分の主張や意見というものがない。夢に誘われていろいろ動き廻って覚めるとその記憶がなくなっている、という」 「モラトリアム人間というのが増えているそうですよ。精神的に成人になりたがらない青年。そうして自分を統合する力がなくなると、社会的な役割も見失って無為無力になってしまう」 「何だか判らねえが、ただ温順《おとな》しいうちはよかったが、あるとき夜中に急に暴れだしたので周りの人がびっくりした。被害者意識が急に逆転して攻撃的になることがあるらしい。だがいつもはなんでも言うことをきく男だから、総裁の受けはいい。総裁はどんなほら話でも、うんうんと言って聞いてやりゃ、機嫌がよくなって面白い。力松を可愛がって、側近の一人にしている。格で言うと、参事だ」 「看護婦がよく窓から飛び出す癖のある患者がいる、と言っていましたが、その力松のことだったんですね」 「ああ、今じゃ何と言ったか、そう、モラトリアム人間などとモダンな名だが、昔だったら離魂病さ。気持が悪くって仕方がねえ。力松が入院したのは俺より一週間ほど前だったという。その力松の部屋の隣、二○八号室には、楽修《らくおさむ》というのが入っている」 「……さっき、僕の前で素っ裸になりました」 「うん。総裁は自分を世界一の億万長者だと思っているが、楽は学問の帝王だ。宇宙の法則を発見したと言っている」 「……僕も妙な数式を買わされそうになりましたよ」 「そうか。俺はそれを五百万円出して買ったがね。もっとも、総裁発行の金でだ」  そう言われると、総裁発行の金は便利のようでもある。海方は続けた。 「総裁も楽の業績を認めている。まあ、総裁が帝王にでもなれば、楽は不自由なく研究費を使える」 「総裁は楽のあの癖には何も言わないんですか」 「ああ、あれね。楽は一応、思想みたいなものを持っていて総裁も納得させられたんだ。つまり、現在のごとく急激な変化を起こしている社会では、古い慣習や礼儀などは無意味になっている。そんなものは武士のちょん髷《まげ》と同じで、さっさと切って捨てよ、と楽は真っ裸になって病院中を駈け廻るわけ」 「なるほど……ただの露出狂じゃないんですか」 「まあ、当人はそれを楽しんでいる面もあるわな。だから、最初は誰でもびっくりするが、ショウとして見ると、なかなかこれが愉快だからあまり文句を言う者はいない。反対に葉っぱを落としたアダムさんというニックネームが付けられた」 「……楽が裸を楽しんでいる、というのが普通じゃありませんね」 「だから入院させられたのだろう。他人が見りゃ愉快だが、身内にしちゃ大変な問題だ」 「それにしても、総裁の信者は意外にいるんですね」 「そう、皆仲良くやっている。娑婆《しやば》にいて角突き合わせている連中よりずっと幸せだろう。楽の部屋の前が二○七号室で、早年性突発性痴呆患者がいる。つまり俺だな。その隣、二○五号室が和多本《わだもと》秋代という婆さんだ」 「なんだか神経質そうな顔をしていました」 「そう。ピューリタンとも言う。ひどい潔癖性なんだ。不潔恐怖症。ほとんど部屋に閉じ籠《こも》って、食堂では隅の方でこそこそ済ませている。うっかり人に触れられたら青くなるぞ。バイキンを付けられたと言い、その服を消毒しないと気が済まない。和多本婆さん、特に俺が嫌いだ。そんなに俺の顔が不潔に見えるか」 「……いえ」 「そうだろう。まあ、婆さんに好かれなくとも俺は動じねえが、和多本の前が二○六号室で、双橋《もろはし》哲夫という三十前後の男。この男は昼間は会社勤めで夜だけ病院へ来て泊まる」 「ナイトホスピタルですね」 「そう。この節、そういうサラリーマンが増えているようだの。家庭に居辛い。家族が起きている家に帰るのが恐い。仕方なく、一人で喫茶店などに閉じ籠って時間を潰す。双橋がそれで、病院から会社に通勤するようになった。後輩が双橋を追抜いて上役になってから特にひどくなり、うっかり自分が休んでいるとその間に成績を上げる同僚がいると気にかかり、休日恐怖症になってしまった。入院してからは病院のベッドだと、安心してよく眠れる、という。夜だけの病院通いだから、総裁は双橋を客分と呼んでいる」  ひょっとすると、海方もその病気の第一期なのではないか。双橋という男をよく観察しておく必要がありそうだ。 「その双橋の隣、君の前の部屋になるが、問題の早崎|珊瑚《さんご》だ」 「……どんな病気なんでしょう」 「登校拒否と食欲不振が続いているようだが、どうも外からは判りにくい」 「と、いうと?」 「そうさな。妄想狂の総裁、無力者の力松、露出狂の楽、休日恐怖症の双橋、不潔恐怖症の和多本、それぞれがそれなりの外見を露わしていて病状の判断がつき易い。だが、珊瑚の場合はどうも見た目だけではよく症状がつかめねえんだ」 「玄関で会ったとき、小さくて陰気な感じの子だと思いました」 「そう。あれで、だいぶ明るくなった方なんだ。入院して来た当座は骸骨《がいこつ》みたいに痩せ細っていた。中学三年というが、小学生にしか見えない」 「拒食症、というのがありますね」 「多分、それだな。しかし、佐織君が目撃したことを考え合わせると、根はもっと深そうだ」 「あの子を放っておいて、継母に危険なことはないんですか」 「君はどう思う?」 「珊瑚が継母に憎しみを持っているのは確かだと思います。珊瑚は父親を尊敬していたんじゃないですか。その父親が再婚して桃子に奪われてしまった。桃子が女の匂いをさせて父親に近付くのが宥《ゆる》せない。仕舞いには桃子の作る食事を一切口にすることができなくなる」 「なんだ。よく勉強して来たようだの」 「なにしろ、僕は狂信者ですから。病人らしくなるように、いろいろ読んで来ました」 「そうか。多分、君が読んで来た心理学の本の通りだと思う。珊瑚は入院してからは食も進み、顔色も良くなったからな。義母が作った食事じゃねえから食べられるわけだ。そういうのを何と言う?」 「エレクトラ コンプレックス」 「何だか一度じゃ覚えられねえの。それが高じると、義母を殺すか?」 「ただのコンプレックスだけじゃ殺さないでしょう。殺すのは特別な精神病者でしょう」 「なるほどな。もしかしたら珊瑚にはその気がある、というわけか」 「……医者にはそれが判らないんでしょうか」 「どうかな。まあ面倒だが、俺が何とか耳打ちをしておこう」  いつもなら、こういう役はほとんど他人に押し付ける。珍しい出来事だが、海方は看護婦長の留美子と話し合えるいい機会だと思ったに違いない。 「さて、今までの七人に君を加えた八人がこの病棟に入院している」  と、海方は締めくくろうとしたが進介には気になる部屋が残っていた。 「僕の部屋の奥に、特別室がありますね」 「そうだ。そこに、女が一人入っているらしいんだが、これまで、一度も部屋から姿を見せねえんだ」 「……鈴木というお爺さんも、その特別室を気にしていましたが」 「そうだろうな。あの爺さん、病院の隅から隅まで知っていないと、気が済まない質《たち》だからの」 「……食事にも出て来ないんですか」 「ああ。この病院で一番古手は、五年以上入院している総裁なんだが、その総裁でも、二○二号室の患者が外に出て来たことは一度もないと言う。ときどき、看護婦長がその部屋へ食事を運ぶのは見るがね」 「婦長は田中留美子でしょう」 「そうだ、がの」 「海方さんがこの病院を選んだのは、留美子が勤めているからでしょう」 「そうだ、がの」 「……はっきりしませんね」 「そうだ、はっきりしねえんだ。あのマドンナは以前会った俺のことをすっかり忘れている。もっとも、四年も前だし、顔を合わせたのは二、三度だったし、今の俺は日本画家だし、思い出せねえのは無理もないが」 「留美子にそう言わないんですか。海方さんらしくないですね」 「いや、美女の前では野暮をしねえのが俺の主義でな」 「留美子は僕を覚えていましたよ」 「それは、あのとき同じ病院に勤めていた佐織君のご亭主だからな。なに、マドンナは優しくしてくれるし、あのときのことは愉快でなかっただろうから、思い出してくれねえ方がいいと思っている」  いつになく悄《しお》らしい。進介は海方が本気で恋をしてしまったか、と思った。 「じゃ、僕の方からも留美子には何も言いません」 「ああ、そうしてくれ」 「それで、入院患者は二○二号の女性を見たことがなくとも、看護婦や医者はその女性を知っているんでしょう」 「ところが、妙なんだ。あの、花住玲という子、これも俺の好みであるから、入院するとすぐ仲良くなって、それとなく二○二号室のことを訊くと、どうもその女性のことをあまりよく知らねえらしい」 「箝口令《かんこうれい》が敷かれているわけじゃないんですか」 「ああ、玲も気にしているに違いねえんだがな。医師の笹木も同じだ。診察は院長と留美子だけが部屋に出向いて患者を診ているらしい」 「……特別な人の身内とかが、世間を憚《はばか》って、院長に便宜を図ってもらっているんでしょうか」 「俺もそう思う。だが、そうなると覗いて見たくなるのは人情だ」 「二○二号室のドアにはいつも鍵が掛けられているんですか」 「そうなんだ。もっとも、並のシリンダー錠だから、その気になれば鍵のねえのも同じだがの。廊下は夜中でも明るいし、いつ夜勤の看護婦が見廻りに来るかもしれねえ。これまで、チャンスがなかった」  進介は以前、細い二本のピンを使い、シリンダー錠を開ける技術を海方から習った。昔、海方はその道の名人と仲良くなって、秘伝を会得《えとく》したのだそうだ。その名人は南京錠《なんきんじよう》専門だったが、海方はドアの鍵でも開けられるようになった。どんな高級マンションの鍵でも、シリンダー錠の原理は南京錠と同じだという。 「だからと言って、ぼんやりしていたわけじゃねえで。その患者の名は判った。二○二号室にゃ、ときどき豪勢な花束が届く。花束は例によって、マドンナが二○二号に運び込むんだが、あるとき、花束を届けに来た花屋に声を掛けて、そっと訊き出したんだ。それで、名が知れた。美島百合子《みしまゆりこ》だという。美しい島に草花の百合だ」 「花束の依頼主は?」 「それがまた怪しい。花屋に注文するのはいつも電話で、女の声だそうだ。精神科のナースステーションに行くと、マドンナが花を受け取り、封筒に入った金を渡してくれる。最初からそういう手続きで、花が送られて来るんだ」 「留美子はその相手を知っているんでしょうかね」 「さあ、どうかの。全く知らない場合も考えられるな」 「怪しいですね」 「うん、怪しい」 「それと、海方さんが変な物を飲まされたことと、何か関係があるんですか」 「それだ」  海方は重重しく言った。 「俺に妙な物を飲ませた奴は、二○二号室にいる、美島百合子という女としか思えねえんだ……俺が特犯に電話をしたのが一昨日《おととい》で、その前の夜、六月六日のことだ。あの夜はちょうど満月でな」  その夜、海方は仲間を集めて二○一号の特別室に忍び込んで、袁彦道《えんげんどう》を極めていた、という。 「早い話が、賽《さい》ころ二つと湯呑み一つでやる、あれさ」 「丁半《ちようはん》をやってたんですか」  と、進介が呆《あき》れて訊いた。 「なに、丁半などという正道なものじゃねえ」 「……丁半に正道も邪道もあるんですか」 「その通り。正道な丁半は盆茣蓙《ぼんござ》があって、中央に壺振《つぼふ》り、相対して中盆という者がいる。壺は籐《とう》で編んだ笊《ざる》で底に綿を置くのが定法《じようほう》、壺蒲団《ふとん》の上で扱い、賽は一天地六南三北四東五西二を法とする。なかなかやかましいものでな。俺たちのはそんな几帳面《きちようめん》なものじゃなく、仲間が代る代る壺を振る。壺は湯呑みの内側に半紙を貼った奴を使う。緞帳《どんちよう》丁半、一名鉄火場てえ奴だ。楽しいことは病気も忘れる。ま、治療法の一つだな」  それなら、袁彦道を極めるなどという大層な言い方はおかしいが、海方の矛盾は日常のことだ。  最初、海方に話を持ち掛けて来たのが楽だった。楽は何人かに宇宙法則の数式を売り、総裁が発行する金を何億と持っていて、使い道に困っていたのだ。総裁が発行する紙幣は乱発気味で第二病棟はインフレ状態になっていた。  夕食後、食堂の隅で二人がこそこそ賽を振っていると、栄養主任の福岡が珍しそうに見ていて、昔を思い出したから仲間に加わりたいと言った。そのうち、ナイトホスピタルの双橋も興味を示し、四人ともなると人目に立つ。空いている広い二○一号で落ち合おうという相談がまとまった。こういう相談はすぐまとまるものらしい。  病院が消灯してから、四人は看護婦に見付からぬよう、それぞれ二○一号室に忍び込んだ。明りが外に洩れてもいけない。読書灯でテーブルの上だけを照らし、勝負がはじまると段段盛り上がる。 「なにしろ、金額が億だからの。これは豪勢だ。ところが熱中すると喉は渇く腹は減る酒は飲みたくなる。よいところでビリゾロ——つまり六の目を揃えたシェフが、じゃ、調理場を捜して来よう、と部屋を出て行った」  この、福岡というのはふしぎな男で、料理の腕は抜群だ。最初、病院の食事などと高を括《くく》っていた海方はボルシチを口にして少なからずびっくりした。  あるとき、海方は福岡に訊いた。 「失礼ですがシェフ、あなたはムッシュウ ランバンの薫陶を受けた方と拝見しましたが、違いますか」 「いかにも……しかし驚いた。ムッシュウ ランバンの味を見分けるあなたは一体何者ですか」 「いや、ただの食い意地の強い男ですが、驚いたのはこっちの方です。シェフほどの腕をお持ちなら、引く手あまたでしょうに、なぜ、病院などで働いているのですか」 「なに、下らん話です。あたしゃ料理は好きだが、お世辞が大嫌いでね。客の取り扱いができない。小生意気《こなまいき》なことを言う客とすぐ喧嘩になる。あっちでしくじりこっちでしくじり、あるときつらつら考えた末、これからも俺の性格は変わるまい。それなら、病院の料理人にでも落着いたら客の機嫌|気褄《きづま》をとることもないと思ったんだ」  というやりとりがあって、海方と福岡は仲が良くなったのだ。  その福岡が勝負の途中でそっと二○一号室を抜け出し、調理場からミネラルウオーターやワイン、ジュース、缶詰などを紙袋に入れて戻って来た。  物が胃に入ると、再び元気が出る。 「ここが肝心なところだ。食物や紙コップは全部、シェフが調理場から調達して来たもので、勿論、ワインやジュースの栓はきちんとしていたし、缶詰も手付かずのものだ。部屋に戻って来てからシェフがそれぞれの栓を開けた。俺は主にワインを頂戴したが、これがシャンパニュー地方の——まあ、そんなことはどうでもいいんだが、俺とシェフがワインを飲み、楽がミネラルウオーターで、双橋がジュース。缶詰のアスパラガスとかコーンビーフなんかを食べていたが、このとき味が変だと言った者は誰もいなかった」  ところが、勝負の途中で、思わぬ訪問者があった。  ドアの方を向いていた海方が最初に気付いた。ドアがそっと開いて、その隙間から誰かが部屋の中を覗いている気配がする。海方は三人の仲間に目配せした。すぐ、福岡がダイスとカップをテーブルの下に隠し、テーブルの上に重ねられた紙幣にも手を伸ばそうとする。昔、何度も賭場の手入れを経験して、手が自然にそう動くのだろうが、福岡の手よりも早く、三人は自分の前の紙幣をポケットに入れていた。 「そこにいるのは誰だね」  と、海方はそっと声を掛けた。 「あたしよ。皆、何やってんの?」  意外な少女の声だった。 「そんなところにいちゃいけない。こっちへおいで」  少女の声が、早崎珊瑚だと判ったので、海方はそう言って手招きをした。廊下にいる珊瑚が看護婦にでも見付かったら手入れと同じ事態になる。  ドアが開いて、両手を後ろに廻した小柄な珊瑚が部屋に入って来た。ポケットの大きなパジャマを着ている。 「後をよく閉めて」  と、海方が注意すると、珊瑚はそっとドアを閉めた。 「まだ起きていたのかい」 「ええ。小父さん達が気になって寝られなかったの」 「お母さんは?」 「疲れてよく寝ているわ」 「ここに集まっているのを知っていた?」 「さっき、探偵さん達、食堂の隅で話していたでしょう」  小娘だが油断ならない。海方は怖い顔をした。 「これはね。大人のやることなの」 「丁半でしょう」 「う……」 「賽ころを使っていたわ。テレビと同じやり方だった」 「……テレビでもね、子供はやらないだろ」 「見ているだけ」 「子供は見ているだけでもいけないの。部屋にお帰り」 「嫌」 「言うことを聞かないと、看護婦さんに言い付ける」  珊瑚は可愛らしくない笑い方をした。看護婦に知られて困るのは大人の方だと、ちゃんと読んでいるのだ。さすがの海方も珊瑚を追い払う手が考えられなかった。 「じゃあね、大人しく見ているんだよ。少しだけ見て、寝なくちゃだめだよ」 「うん」  珊瑚はベッドの端に腰を下ろし、膝の上に小さなポシェットを載せた。 「ジュース、飲むかい」  と、福岡が言った。  子供に見られていると思うと気詰まりだ。内心では珊瑚も仲間に加えたいのだろう。  福岡はオレンジジュース瓶の栓を抜き、珊瑚に手渡した。珊瑚は嬉しそうにジュースをラッパ飲みにする。それを見て、福岡は少し気が楽になったように、賽とコップをテーブルの上に取り出した。  珊瑚は興味|津津《しんしん》といった表情で四人を見守っている。 「もし、珊瑚に博才があるとすると……いやそんなことはどうでもいい。今、問題は飲み物だ」  と、海方は続けた。 「それまで、四人が飲んでいた、ワインやミネラルウオーター、それに珊瑚が飲んだオレンジジュースなどの味にはどれも異物を感じなかった。ただし、匂いとなるとこれが別で、今になって考えると、あの部屋には少しだけ刺激臭があったのを覚えているんだ。俺が飲んでいたワインと同じアルコール臭だから、並の嗅覚では迷わされるかも知れないが、ワインの深い丸味とは全く別の刺激臭だった。今のところ、それが何を意味するか判らないんだが」  珊瑚が見ているためか、その後、福岡の成績が思わしくなくなった。最後にはたまらなくなったようで、 「お嬢ちゃん、もういいだろう。早く寝なきゃな」  と、拝むように言った。珊瑚はまだ未練そうに、 「明日もやるの?」 「ああ、やる。お嬢ちゃんが今夜のことを誰にも言わなかったら、明日もやる」 「又、来てもいいわね」 「そう、でも、ちょっとだけだよ」  珊瑚はそれで納得したようにベッドから腰を浮かせた。 「ここに来るときもね、誰にも見られないようにね」  と、福岡は念を押した。  ところが、珊瑚が出て行かないうち、別の邪魔者が部屋に飛び込んで来た。  夢遊病の力松だった。  力松はドアを開けると、いきなり大きな声で歌を歌いはじめた。かなり響く声量で歌は「西部劇の歌」だった。海方の知識は無残なほどばらつきがあり、特に西洋音楽の部門で欠落がひどい。ウエスタンでもポップスでも皆「西部劇の歌」に聞こえる。  力松はその何だか判らない西部劇の歌を歌い、歌の終りにハイホー、ハイホーと連呼してから、 「ギャンブラー、手を挙げろ」  と、怒鳴った。  力松は拳銃を構える姿勢だったが、実際に何を持っていたかは判らない。海方は力松の声と同時にテーブルの上に置いてあった紙幣をポケットにさらい込み、福岡が読書灯を消した。部屋が暗くなる直前、福岡が賽をつまんで口に放り込むのが見えた。 「ハイホー、ハイホー。動くと撃つぞ」  と、力松が言った。  海方の隣にいた双橋がベッドの下に潜り込む。  ——ばん!  力松の手のあたりが、一瞬、赤く光った。 「ぎゃあ……」  誰かが叫び声をあげ、誰かが力松に飛び掛かって行った。  海方は隙を見て自分の部屋に逃げ帰ろうと思うのだが、ドアの附近で二人が取っ組み合っているので外に出ることができない。様子を見守っていると、建物に巨大な電気ドリルが突き立てられたか、と思うばかりの音が響きだした。  非常ベルだった。騒ぎを聞いて誰かが非常ベルを押したらしい。  すぐ、ドアの向こうに人影が現れた。人影は手を伸ばして電灯のスイッチを押す。かっと部屋が明るくなった。同時に非常ベルが止まった。  電灯をつけたのは花住玲だった。婦長の田中留美子もいる。二人は部屋の中を見て目を丸くした。 「あなた達、何をしているんですか」 「保安官どの」  力松が玲に向かって敬礼した。 「賭博現場を発見しました。全員、逮捕します」 「賭博現場ですって?」  二人は改めて部屋の中を見た。福岡がグラスの内側に貼った紙も取り除いていたので証拠になるものは何もない。 「楽さん、服を着なさい」  いつの間にか、楽が素っ裸になって両手と股を同時に開いた。 「僕、ご覧の通り、ダイスもカードも持っていません」 「……判りましたから、早く服を着なさい」  楽は渋渋、白い上衣を床から拾い上げた。 「福岡さん、こんなところへ何しに来たんですか」  福岡は紙コップに残っていたワインを一気に飲み干した。証拠隠滅のためだ。テーブルの上はミネラルウオーターの瓶と紙コップだけだった。ワインの瓶や缶詰はとうに紙袋の中に押し込んである。 「つまり……正しいトンカツの作り方を講習していたところなのです」 「……無断で空部屋を使わなきゃならないんですか」 「その通りです。正式なトンカツには油の合わせ方、火加減が秘中の秘でありまして、他人に立ち聞きされるような場所では困るのです」 「嘘だ」  と、力松がわめいた。 「僕はちゃんと見ていたぞ。テーブルの上に賽ころが二つ転がっていた」 「……それは、つまり賽ころトンカツと言い、大きさが大切なのです」 「嘘だ。この人は僕の顔を見て、賽ころを呑み込んだ」 「それは、賽ころトンカツの正しい食べ方として……」 「二人共、お黙りなさい」  と、留美子が命令して、力松に言った。 「何か、凄い音がしたわね」 「双橋さんが逃げようとしたので、発砲したのです」 「双橋さんなんかいないじゃないの」 「ちゃんとこの部屋にいますよ」 「……気味の悪いことを言う人ね。あなたには見えるんですか」 「見えません。ベッドの下ですから」 「……ベッドの下?」  玲は腰をこごめた。 「双橋さん、出ていらっしゃい」  双橋が尻の方から這い出した。 「なぜそんなところに入ったんですか」 「力松さんがピストルで撃とうとしたからです」 「動くなと言ったのに動いたから撃ったんだ」  と、力松が言った。双橋が言い返す。 「いや、本当は撃たなかった。モデルガンで音だけだったじゃないか」 「音だけなのになぜ逃げた」 「撃つ振りをしたから、逃げた振りをしただけだ」 「二人共、わけのわからない問答は止めなさい」  と、留美子が言った。 「モデルガンだって大きな音がしたでしょう。夜中に発砲するなんて非常識です」  力松の両手は空だった。玲は楽の方を見たが、たった今全裸だったばかりで手には何も持っていない。モデルガンは珊瑚が持っている。力松と楽が揉み合っているうち、モデルガンが床に落ちたのを珊瑚が拾い上げたらしいのだが、海方の大きな身体の陰で留美子には珊瑚の姿が見えないようだ。 「モデルガンはどこですか」  と、留美子が言った。 「わたし、これ、欲しいな」  その声で玲ははじめて珊瑚に気付いた。 「呆れた……珊瑚ちゃんも仲間だったんですか」 「この子は飛び入りです」  と、福岡が言った。 「珊瑚ちゃん、それ、返しておくれよ」  と、力松が言った。 「これ、好き。イエロージャケットというのね。くれなければ帰らないわ」 「……仕様がないな。じゃ、飽きたら返しておくれ」  珊瑚はモデルガンを両手で抱え込んだ。最初から返す気はなかったらしい。玲が苛苛《いらいら》した声で、 「さあ、皆さん。部屋に引き取りなさい。二度とここへは来ないように」  と、珊瑚の手を引いて廊下に出た。  留美子はまだ言いたいことがあるようで、部屋の中を見廻していたが、 「この部屋、なんだかお酒臭いわ」  と、鼻をひくひくさせた。 「宴会もしていたんでしょう」  海方は鼻の前で手を振った。 「いや、とんでもございません。飲んでいたのは水だけです」  留美子は疑わしそうにミネラルウオーターの瓶を見た。 「いや、判ります。瓶が怪しいとおっしゃるのでしょう。この男なら水の瓶に酒を詰めて部屋に持ち込むことぐらいやりかねない。結構、中身をお確かめください」  留美子は新しい紙コップに瓶の水を注ぎ、匂いを嗅いでから口に運ぶ。 「普通の水ですね」 「でございましょう。私は正直者です」 「お疑いは晴れましたか、まずは目出度《めでた》い」  と、福岡が言った。 「なにが目出度いんですか。さあ、部屋に引き取りなさい」 「判りました。そういうことで、皆さん、今日はこれでお開きに」  と、海方が言った。  楽は貧寒とした顔で、紙コップを取りミネラルウオーターを紙コップに注いで飲む。 「さあ、早く」  留美子に急《せ》かされて、五人は廊下に出た。  留美子はそれを見て、ナースステーションに戻って行った。  留美子の姿が見えなくなると、福岡が海方の袖を引いた。 「探偵、このまま帰る手はないやね」 「どこかいい場所がありますかな」 「惚《とぼ》けるんじゃない。賭け金を全部さらったじゃないか」 「ああ、あれ……まだ覚えていましたか」 「冗談じゃねえ。猫糞《ねこばば》する気だったのか」 「いや、毛頭、あの場を取り繕《つくろ》っただけで……」  海方はポケットから総裁発行の紙幣を取り出した。 「で、どういうことに?」 「まあ、この際だから四の五の言っても仕方がねえ。気持よく四つに割って分けよう」  双橋だけが自分は勝ち越していたと言い張ったが、愚図愚図している場合ではない。海方が紙幣を揃えて適当に四つに分け、一番多そうなのを自分のポケットに入れ、あとを三人に押し付けた。  双橋が不服そうに持った紙幣を見ていると二○四号室のドアが開き、玲が出て来た。双橋は慌てて紙幣をポケットに入れる。 「まだ部屋に帰らないんですか」 「いや……部屋にまだワイン……ではなく片付けが残っていると思い」  と、海方が言い訳をした。 「それなら探偵さん。あなたが片付けなさい。電気も消してドアをきちんと閉めるんですよ」 「……言い出しっ屁《ぺ》ですか。仕方ありませんな」  海方が引き返そうとすると、廊下の奥のドアが開き総裁が出て来た。総裁は一万円札の図柄をプリントしたパジャマを着、同じ生地のナイトキャップを被《かぶ》っていた。 「一体、何が起こったのだ」  総裁は近付いて来た。 「乱交パーティなどではありません。ご安心を」  と、海方が言った。 「誰が乱交パーティなどと言った。さっき、ピストルの音が四発も聞こえたようだったが、探偵、あれは何だ」 「いや、音は一発だけでしたよ。なに、ちょっとした手違いがあったようです。西部劇の夢を見て、ちと騒いだ者がいたのです」 「……俺は金の夢を見ていた」 「それはさぞ楽しかったでございましょう」 「乱交パーティほどではなかった」 「なるほど。金には飽きていらっしゃる。ですが、事件は万事、私が片を付けました。ご安心を」 「そうか。しかし……お前もいいがときどき嘘を吐《つ》く」  玲が口を挟んだ。 「探偵の言う通りよ。事件は終ったわ。部屋にお戻りなさい」 「保安官もこう申しております」  と、海方が言った。 「この子はいつから保安官になったんだ」 「今夜からでございますよ。なにしろ、大の男を四人、手玉に取りました」 「じゃ、矢張り乱交パーティだ」 「この人達、本当にばかばかしいわ」  総裁は玲に背中を小突かれて廊下を戻っていく。  病棟で姿を見せないのは和多本だけだった。騒ぎに気付いたものの、怖くて出て来られないのだろう。  力松が部屋に戻り、楽、双橋が続いて廊下から姿を消す。 「じゃ、ね、探偵。判ったわね」  と、玲が海方に言った。  海方は二○一号室に戻り、食べ残しの缶詰やワイン瓶を入れた紙袋を持ち出そうとしたとき、ミネラルウオーターがまだ残っているのに気付いた。最後に飲んだワインで口の中がべとついている。海方は紙コップにミネラルウオーターを注いで口に運んだ。  ところが、この水は舌が捩《よ》じれるほど苦かったのである。 「試しに珊瑚が飲み残したオレンジジュースを口にしたが、この方は変わりがなかった。飲み掛けのミネラルウオーターだけが異状だった。この瓶の中へ、妙な物を投げ込んだ奴がいる」  と、海方は言った。 「それで、だ。今迄、俺が喋った順序をよく覚えていないと困るんだ。シェフが料理場から運んで来たミネラルウオーターは、栓がきちんとしてあったし、実際に俺も飲んでいる。この時点で疑わしいところはないので、異物はその後で投入されたことになる。といって、賭博の最中、いくら賽に夢中だからと、そんな妙な真似をすれば、誰でも気付く」 「力松が乱入したときでもないんですね」  と、進介が言った。 「おお、そうだ。それが言いたかった。あのときは部屋中がてんやわんやだったし電灯も消えていたから、誰にも見られずミネラルウオーターの中に薬物でも小便でも入れることはできたろうな。しかし、騒ぎが収まってから、マドンナがミネラルウオーターを毒見し、楽のアダムさんもその水を飲み、平気な顔をしていた。従って、その時点でもミネラルウオーターの瓶の中身は正常だった」 「……すると、皆が部屋を出て、部屋が空になったときに?」 「そう。それしきゃ考えられねえわな。ところが、一度部屋を出て、引き返したのは俺だけだった。珊瑚は一番最初、玲に手を引かれて部屋に戻される。一度、総裁が自分の部屋から出て来たが、二○一号室に足も入れずすぐ戻っている。それから、力松、楽、双橋、シェフの順で部屋に入り、最後の俺が二○一号室に行くと、もうミネラルウオーターの味が変わっていた」 「……部屋には誰もいなかったはずですね」 「そう」 「じゃ、窓から侵入した者の仕業と考えられませんか」 「俺もそう思った。で、すぐ窓を調べたんだが、窓にはちゃんと掛け金が下りていた。外から部屋に入り込むのは不可能な状態だった」 「すると?」 「残る方法は一つ。実に大胆なやり方だが、俺たちが廊下に出て、賭け金を分配している間に、そっと二○一号室に出入りすることはできる」 「……非常口のドアが開くとナースステーションに判ると言っていました」 「そう。非常口からじゃねえ。俺達は珊瑚の部屋、二○四号室の前でこそこそやっていたから、問題の部屋に出入りすることができたのは、その真ん前、特別室の二○二号にいた人間しかいねえ」 「……美島百合子、ですね」 「うん。その部屋にいる人間ならだが、もし四人のうちの誰かがひょっこり振り返りでもしたらすぐ見付けられてしまう。大胆なやり方と言ったのはそういう意味だ。ところが、誰もその美島百合子を見ちゃいねえ」 「美島百合子は海方さんを識っているんでしょうか」 「俺のことをそっと観察していたとしたら識っているだろうな」  海方は気味悪そうに言った。進介にはまだよく判らないことが多すぎる。 「丁半に集まった仲間は、海方さんと福岡がワインを飲み、ミネラルウオーターが楽で、ジュースが双橋だと言いましたね」 「そうだ」 「すると、犯人の標的は楽だったんじゃないんですか。楽に異物を飲ませるのが目的だった、と思えませんか」 「いや、そうは思えねえ。水なんざ、口直しに誰でも飲む。実際、俺もシェフも双橋もちょいちょいその水を飲んでいた」 「……すると、犯人は部屋にいた五人全員に異物を飲ませようとしたんでしょうか」 「というより、誰彼の見境いもなく、だな。五人が一度部屋を出て、また引き返したのは俺だったが、それは俺の言い出しっ屁で、部屋を片付ける役はシェフに廻っていたかもしれねえ」 「その瓶と水は?」 「うん。あまり不可解だから、そのまま俺の部屋に保管してある。また佐織君を煩《わずら》わすようだが、それを鑑識の指紋係まで持っていってもらいたい。指紋が検出されれば、謎を解く鍵になりそうだ。それから、中身は科研で分析してもらおう」 「……毒物だと思いますか」 「いや……俺はあのとき疑いもしなかったから、一口は胃の中まで通り抜けていった。だが、ご覧の通りぴんぴんしている。ただ、三河課長にゃ、ちょいと話を面白く伝えた。君をここに寄越すにゃ、いい口実になる、と気付いたわけさ」 「……その前の、ベラドリンコの件だけじゃ、特犯がそう驚かない、と思ったんですね」 「そう。あの件ではベラドリンコの中に毒が検出されなかったんで三河課長の頭じゃ事の重大さが理解できなかったんだろう。しかしよく考えてみや。缶の外見が完全で、中身の飲料水が入れ換えられるということは、毒物でも自由に缶の中に注入できる、という意味でもある」 「すると、早く真相を糾明しないといけませんね」 「まあ、そう急ぐことはねえ。君が来たとたんに一件落着じゃ、休養する暇もねえ。当座は混沌|模糊《もこ》ということにして病院の様子を見ていよう」  最後に海方は本性を露わした。ひょっとすると、海方の怠けたい一心が不思議な犯罪めいた解釈を引き起こすのではないか、とさえ思いたくなる。  そのとき、窓の外からクラリネットの音が聞こえてきた。あまり上手とはいえない。チンドン屋を連想させる音だった。 「聞こえるか? もう、そんな時間になったか」  と、海方が言った。 「一体、何なんですか」 「総裁の音頭取りで、世界銀行の総会報告が開かれる合図だ。俺も探偵として総会の遂行のために出席しなければならん」 「……ここではそんな集会が宥《ゆる》されているんですか」 「ああ、出たい者は出席すればいい。強制はいけないが、自由であれば大抵のことは大目に見てもらえる。君も多少は調べて来たと思うが、先代の院長は昔、有名な学説を発表したらしい。難しいことはよく判らねえが、要するに人間の病いは無理や我慢から生じる。世間の絆《きずな》なんぞに縛り付けられているのが一番良くねえんだそうだ。なに、古くから言う病いは気からてえのを大先生は学術用語を使ってこねくり廻しただけだと思うんだが、ここではその療法が受け継がれている。入院の当座は病室で安静にしてなきゃならねえが、しばらくするとかなり自由が宥されるんだ」 「……総会でどんなことをするんですか」 「そろそろ、総裁が帝王を宣言するころだ。財界の帝王、すなわち財帝と言う。外の集会もいいが、この前のときは藪蚊《やぶか》に喰われて往生した、や?」  海方は急に言葉を切った。誰かが海方の部屋に入って来たのかと思ったが送信器のスイッチはそのままだ。しばらくすると、 「俺、今、何と言った?」  と、再び海方の声がした。 「藪蚊に喰われた、とか」 「そうだ、それで思い出した。あまり痒かったんで、看護婦に言い、メントール膏《こう》を貰った。あの臭いだ」 「……何の臭いですか」 「賽ころで遊んでいたとき、二○一号室の中で気付いた臭いだ。ありゃ、メントールの臭いだったぞ」 「メントール……薄荷《はつか》ですね」 「あ、待て。誰か来る」  イヤホーンがざわざわと言い、何も聞こえなくなった。  四章 リザドトキシン  外から再びクラリネットの音が聞こえてきた。  進介がそっと窓から外を見下ろすと、病院の庭の一隅に、四人の男女が集まっていた。  クラリネットを吹き鳴らしているのが、さっき進介の前で素っ裸になった楽修だった。今は白衣を着て、楽器を口に当てているためか、一段と頬が痩《こ》けて見える。  集団の中心人物は、顔が大きく、カニみたいに身体の幅の広い男だった。薄い髪の毛をすだれに撫で付け、両の眉と口髭がほぼ同じような形で平たい逆三角形の頂点の位置に並んでいた。エンジ色の派手な棒縞の背広に赤の蝶タイ、胸にはなにやら大きな金色に光る物を付けている。これが、総裁と自称している百田に違いない。  もう一人は、髪の毛の多い、目鼻立ちの大きいがっしりとした体格の四十前後。黒っぽいタートルネックのセーターを着ている。立っている姿が無気力に見えるので、夢遊病の力松らしい。  四人目が早崎珊瑚だった。白いシャツに空色のジャンパースカート。遠くからでは小学生にしか見えないが、総裁の方を向いたまま微動もしない。  その、四人が集まっているところへ、どたどたした感じで、海方が小走りに駆け寄って行く姿が目に入った。海方は百田の前に立ち止まると、慇懃《いんぎん》に頭を下げた。昔の商人が揉《も》み手《で》をしているような卑屈な態度がまる見えだが、それが演技なのか地なのかはよく判らない。  世界銀行総会の報告会とかに集まるのはその五人のようで、しばらくすると楽がクラリネットの吹奏を止め、百田が中央に立った。海方は百田の後ろに三太夫《さんだゆう》といった姿で首を少し傾けている。百田は片手を上げ、演説でもはじめたようだ。 「あら……」  後ろで佐織の声がした。進介は反射的に窓から身を退いた。 「ここは庭が見渡せる。いい部屋でしょう」  部屋に入って来たのは三十五、六の医師だった。文字原病院のマークが入ったネクタイを締めている。グレイの背広の胸に「笹木正雄」と書いた名札が見えた。笹木は窓の傍に寄り、外を見下ろしてにこっと笑った。 「やっているね。この病院は本当に自由なんだ」  そして、さり気なく進介の様子を窺《うかが》うのが判る。 「皆、人の良い面白い人達です。ここにいると、他人に迷惑が掛からなければ、どんなことをしても、誰も何とも思わない。だから、今、相手がどんな風に自分を考えているかなど、過敏になる必要がない」  進介は神妙にうなずいた。 「ただし、二、三日は静かに寝ていること。あまり、外を気にしないで、読書、ラジオもだめ。判りましたか」 「はあ……努力します」 「いや、努力することはないんだ。人間は何にもしないで、ぶらぶら暮らせたらいい。そう思ったことがありませんか」 「……はあ」 「今が、そのときなんですよ。だから、実に理想的な立場なんだね。もっとも、一生そうだったらたまらないが、すぐ、外出してもいいようになります」  進介が調べた知識だと、文字原病院の精神科の療法は、先代の文字原弘太郎が、ドイツの精神医学者ブルクミュラーに学び、日本人の性情や体質に合わせて進展させたものだという。弘太郎は元元、薬学が専攻だったが、ドイツに留学したとき、ブルクミュラーの人柄に強く引かれ精神医学を学ぶようになった。  ブルクミュラーの考えの中心は、精神病者を特別の人間という概念を否定した点で、正常の人の心にも異常が起こりうると認識する。従って、患者の人格を認め、治療はスピーチクリニックと薬を併用する。患者の行動はかなり自由がきくから、佯狂《ようきよう》の海方の居心地がいいのだ。 「ここは東京には珍しく緑は多いし、近所の農家は畠を作っている。朝、起きてごらん。鳥のさえずりが聞こえるよ」  と、笹木は言った。進介は口を尖らせる。 「でも、畠や小鳥がいなくなるのは、もう時間の問題でしょう」 「いや、そうは思わない。せっかく、これまで畠を守って来た人達だからね」 「先生は楽天家ですね」 「楽天家と一緒にいると、苛苛《いらいら》しないかね」 「ええ。多少は」 「勤め先の人達は?」 「全員が皆僕を良く思っていません。蔭で悪口ばかり言っています」 「なるほど……そのことについては、また話して下さい」  紋切り型の精神症の演技に後ろめたい思いだった進介は、笹木が話を打ち切ったのでほっとして、はじめて疲れを感じた。こういう毎日を楽しんでいる海方の心臓は、よほど丈夫に違いない。  笹木が病室を出て行ったので、進介が再び窓から外の様子を見ると、百田を取り囲んでいるのは三人になっていて、海方の姿だけが見えない。どこへ行ったのかなと思っているうち、進介の目の下に海方の頭が現れた。海方の頭の天辺が丸く禿げているのですぐに判る。  海方は例のどたどたした足取りで元の場所に戻り、手に下げていた物を百田に見せた。筒型をした銀色の魔法瓶だった。百田が鷹揚《おうよう》にうなずく。海方は魔法瓶の蓋を取り、それを逆さまにして瓶を傾ける。蓋のコップに液体が満たされたようで、海方はコップをそっと百田に手渡す。百田が中の液体を一口飲んだか、と思ったとき、時間と動きのリズムが、突然に崩れた。  百田が口にふくんだ液体を、霧にして外へ吐き出したのだ。  それを見て、目を丸くしている海方の鼻先に、百田は今口にしたコップを突き付ける。海方はひたすらおろおろし、コップの中を覗き込み、臭いを嗅ぎ、口を付けてみる。百田はなにか言いながら、ハンカチを取り出して口の周りをごしごし拭っている。  海方が持っているコップを、横から手を伸ばして取り上げたのは楽だった。楽はすぐコップに口を付けたが、すぐ総裁と同じように液体を霧にしてしまった。そのコップは最後に小柄な珊瑚に手渡される。珊瑚も他の三人に倣《なら》ったが、コップに口を付けたか付けないかで、すぐ掌で口を覆ってしまった。  全員の目が海方に向いた。  海方は首を竦《すく》めるような姿で、しきりに両手を開いたり閉じたりしている。その身振りを進介が翻訳すると、こうなる。 「はて、何やら粗相がありましたか。私めにはとんと合点《がてん》がいきませぬ。ただ、総裁の魔法瓶を取りに行って戻って来ただけのことでして、その中に異物が混入しているなどとは、全くもって面妖な出来事……」  進介は振り返って、佐織に言った。 「また、君の仕事ができたようだ」  佐織もそっと窓に近付いて外を見た。 「あの百田の魔法瓶に、変な物が入ったらしい。多分、海方さんがその中身を採取すると思う。君はそれをこっそりと受け取って、科研に運んで分析を依頼するんだ」 「じゃ、行くわ」 「水を入れる容器が必要だと思う」 「待合室の販売機で、飲み物を買い、中身を空けて瓶をすすげばいいでしょう」  海方が内の女房は別だが、と前置きし、女性を扱うには言葉だけではだめだ、と言ったのを思い出した。それを参考にしたわけではないが、進介は佐織を引き寄せてキスをした。 「さすが佐織君だ。機転がきく。上手に魔法瓶の水と、ミネラルウオーターの瓶を持って行った」  と、ラジオの海方が言った。 「だが、俺には予想が付いている。あの薬は二○一号室で前に俺が飲まされたものと同じだ」 「味で判ったんですか」 「そう。今回のはもっと濃かったが、味は同じだ」 「相当、苦かったんですか」 「ああ、舌が曲がりそうだった」 「その割には、さり気なく見えました」 「うん。この前のことがあったんで、口に入れる物には注意深くしているんだ。誰がそんな変ないたずらをするのか、突き止めたいという腹があるから、なるべく呆《ぼ》けた顔をしていようと思ったが、身体が震えたな」 「……毒、じゃないんですね」 「そう思う。前のときの味をちゃんと覚えている」 「……海方さんの舌は特別です」 「だが、肝心な脳の方がよく動かねえ。誰が何の目的でこんなことをしているのか見当も付かねえのだ」 「あの魔法瓶は、百田のものだったんですか」 「そう。あの男、糖尿の気があるらしい。いつも喉が渇くと言い、氷水を魔法瓶に入れて持ち歩いている。もっとも、最近じゃ魔法瓶を持って歩くのは俺の役になったがね」 「さっき、それを持ち忘れたんですね」 「そう。多分、本物の呆けもはじまったらしいの」 「どこに置き忘れたんですか」 「食堂で氷を貰い、そのまま忘れて来てしまった」 「……そのまま?」 「いや、言い訳じみるが、食堂に珍しい物があってな。というのが、食堂にいた珊瑚に用を頼まれた。玩具を直してくれというので、食堂にゃ小道具がないから、珊瑚を連れて部屋に戻った。それに気を取られて魔法瓶のことをころりと忘れてしまった」 「どんな玩具なんですか」 「〈イズとポン〉だという。イズが女の子でポンが小犬。二体が一組で、その人形の前で手を叩くと、オルゴールが鳴って人形が動く。犬が吠えて跳ね上がり、女の子の持っていた輪をくぐり抜けるんだ。音のセンサーが組み込まれているんだな。その玩具の音がうるさいとお母さんから言われた、と珊瑚が言う」 「それで、声の出ないようにしてやったんですね」 「そう。わけない仕事だったが、お母さんには言わないでくれと念を押された。あれで、気を遣っているところもあるんだ」 「すると、食堂に忘れて来た魔法瓶の中に、誰かが何かを入れたんですか」 「そう。俺もそう思ったから、庭からすぐ食堂へ引っ返して福岡に訊いたんだが、俺がテーブルの上に魔法瓶を忘れて行ったのは後で気付いたが、すぐ取りに来ると思い、手も触れなかった、という」 「……証人がいるんですか」 「ああ。食堂の連中は皆調理場にいた。俺が戻る間カウンターを出た者は一人もいない。魔法瓶を置いたテーブルはカウンターの内側からは手が届かねえ」 「すると、最初から水に異物が混ぜられていたんですか」 「でもねえから頭が痛む。魔法瓶は氷水を入れる前に、俺が食堂の流し台でよくすすいだから白だと思いねえ。食堂のカウンターにはいつも氷水を入れたガラスの水差しが置いてある。傍に銀の角盆にグラスが伏せてあって誰でも自由にその水が飲める。俺が魔法瓶をすすいでカウンターに行くと、客分——双橋が水差しからグラスに水を注いで飲んでいた」 「双橋が?」 「今日は土曜日で会社が休みなんだと言う。休日になると落着かない、休日神経症なんだな。それで、あちこち歩き廻っているんだな。だから、その水差しの中の氷水も白だ。福岡に断わって、俺は双橋が水を飲んだ後の水差しの氷水を全部魔法瓶に空けてすぐ栓をした」 「それから、珊瑚の玩具に気を取られたんですね」 「うん」 「海方さんが食堂を出た後で、食堂に来た者はいなかったんですか」 「そうなんだ。魔法瓶の中に何かを入れるチャンスはそのときしかねえんだが、君だったら、どうする?」  進介はまた例の癖がはじまったな、と思った。海方は難題にぶつかると、実に巧みに体を躱《かわ》す。 「床を這うように忍び込んだらどうですか」 「食堂には何人も働いているからな。全員の目を逃れられるかな」 「……ですから、同じ形の魔法瓶を持って行って、百田の瓶と擦《す》り換える、という手を使います」 「なるほど……それなら仕事が早い。きっと、それだ」  これも海方の得意芸だ。事が複雑になると、いい加減でも早く結論を出してしまおうとする。 「この病棟にいる人なら、誰でもその魔法瓶は百田のものだと知っているんですね」 「そう。総裁と俺が並んで歩きゃ、目立つからの」 「すると、犯人は今度は百田にその薬を飲ませようとしたわけですね」 「うん。鉄火場の夜が俺、二番が総裁、とこうなる」 「百田は金持ちなんですか」 「なんの、素寒貧《すかんぴん》だ。口に税金は掛からないから言うことは凄い。世界中至るところにホテルを持っていて豪華船が航行しているからいつでも飛行機で好きなところを見物できるが、とっくに世界中を歩きつくし、かえってそうなると出歩く気はしない。財産を算定できるような奴は貧乏人だ、わはは、だと。本名は百田《ももた》金之助で、自分じゃ七十五だと言っているが本当は七十二。あるとき総裁の保険証を覗き見したから、これは確かだ。ともかく、どんなほら話でも、うんうんと言って聞いてやりゃ、機嫌がよくなって面白い男だ」 「今日の説明会はどういう話だったんです」 「いつものように他愛ない妄想での。今年の秋、ニューヨークで世界億万長者会議が開催されることになり、日本を代表して総裁のところに招待状が届いた。自分はその会議に出席し、財帝選挙に立候補する。総裁の目から見ると立候補者は皆貧乏人だから当選は確実。財帝になった暁には文字原病院を世界一の規模に改造し、今日の総会に集まった人達を各大臣に昇格させ、相当の給金を渡す、とこう言う」 「海方さんは百田から給金を貰っているんですか」 「ああ、総裁が発行している紙幣でな」 「……総裁の演説を、皆、本気で聞いているわけですか」 「ああ。もっとも、言っている意味はほとんど判らない。総裁の話も滅裂だ。のっけに今日の日を間違え、六月十二日だと言った」 「何だか気味の悪い病院ですね。さっき、留美子が患者の間で妙な噂が流れている。それが、夜になると目の光る幽霊が出没する、というんだそうです」 「じゃ、留美子は君を覚えていたのか」 「ええ。佐織と一緒でしたから、嫌でも思い出すでしょう」 「……俺のことはまるで覚えちゃいなかった」 「日本画家という触れ込みがよくなかったんじゃないですか」 「なに、たまには芸術家を気取ろうと思ったんだ。で、留美子がどこかでお会いしましたね、などと言ってくれたら、それはきっと前世で特別な間柄だったんでしょう、などと答えて仲良くなろうとする下心があった」 「そうは言ってくれなかったんですか」 「最後まで言うな。だが、気に入った女と同じ屋根の下にいるのはいいことだ」 「留美子が美しくなったのは、海方さんに恋したからだと思いました」 「妙な世辞を言うな。その、幽霊の噂話なら、俺も聞いた」 「誰からですか」 「珊瑚が言っていた。あの子は好奇心の強い子でな。よその病棟へ行って聞いて来たらしい。その話を聞いて、最初、これは頂けると思った」 「幽霊事件の解明のため、入院を延ばす、と三河課長に言おうとしたんでしょう」 「そうだ。だがよく考えて見ると、ただの幽霊の噂だけじゃ、三河課長も怒るわな。と思っているとき、続けて妙なことが起こった、というわけだ」 「その幽霊話と、一連の薬物混入とは関係があるんですか」 「そこなんだが、考え出すと頭が痛む。頭が痛いのは身体に悪いことだ」 「じゃ、無理に考えないことにしましょう」 「その方がいい。それよりも、六時になると夕食の時間だが、さっき食堂を覗いたところ、福岡が蛸《たこ》を自慢して見せていた。あの蛸がどう料理されているか、大いに楽しみだ」  海方は半分は夕食の偵察に食堂へ行ったようだった。  六時の鐘が鳴るのを聞いて進介が食堂に行くと、海方もちょうど食堂に入ろうとしているところだった。  海方は相変わらず、洒落《しやれ》とも真面目ともつかぬ態度で、百田の横に従い、食堂に入って、ためらわずに窓際の席に行き、椅子を引いて百田を坐らせた。いつも決まったテーブルらしい。自分は調理場の境に仕切られたカウンターに寄り、水差しを取り上げて二つのグラスに水を注いでいる。  問題の水差しはこれだな、と進介が海方の手許《てもと》を見ていると、百田が声を掛けた。 「君は新規の人かね」  近くで見ると、白髪の混った口髭が不揃いで、なんとなく不潔な感じがする。 「今日、入院しました」  と、進介が言った。 「お名前は?」  海方が二つのグラスを持って来て、テーブルの上に置いた。海方は妙ににたついているが目を合わせない。進介の対応を面白がっているようだ。進介は百田に言った。 「名を訊くのなら、あなたから名乗るのが礼儀でしょう」  百田はちょっと上目遣いで進介を見て、ゆっくりと椅子から立ち上がった。 「これは失礼。私は二一二号室に居住しておる——」 「総裁室は二○九号です」  と、海方が訂正する。  百田は背広の内ポケットから本のように部厚な大きな黒皮の札入れを取り出し、葉書大ほどある名刺を取り出した。進介が名刺を受け取って表を見ると、名刺を大きく作った理由が判った。百田金之助という太い活字の周りに、びっしりと無数の肩書きが取り囲んでいるのだ。  世界銀行総裁が最初で、聞いたこともないような会社や団体の社長総長会長に続き、博士号もあれば相撲の監察委員、剣道十段、囲碁九段などというのもある。最後の方になると、イギリス国公爵、オランダ国伯爵、モナコ国侯爵といった爵位が並んでいる。それでももの足りず、わずかな空白にはペンの世界億万長者連合、財帝という字が読めた。 「僕は小湊進介といいます。名刺の持ち合わせがなく、失礼します」  と、進介が言った。 「なに、失礼はこっちだ。新しい名刺が間に合わんで、古いのしかなかった」 「ずいぶん偉い方なんですね」 「なに、まだ少しも偉くはない。爵位などもまだ八つしか持っておらん」 「総裁、五つです」  と、海方が注意する。  百田はそれでも満足そうな顔で言った。 「そのうち、アメリカ国を買い取り、わしが国王になる。そうすれば、今よりもう少しましな人物になる」 「……国が、買えるんですか」 「ああ、金さえあれば買える。まず、政治家から順に買い潰し、最後に大統領を買ってしまう。アメリカには大統領より上はいないから、仕事は楽じゃ」 「そんなにお金を持っているんですか」 「ああ。幸いなことに、今の金は幻影だ。印刷機と紙さえあれば、いくらでも作り出せる」  進介はうっかりと相槌を打ちそうになった。確かに、今の紙幣の実体は印刷された紙だ。 「アメリカは広い。矢張り、紙の金よりも、土地ですか」 「いや。土地で騒いでいるのは世界中で東京の都心だけだ。所詮、土地も幻影にすぎない。もうしばらくすると、金も土地も、幻影から解き放される。だから、アメリカを買うのは今のうちなのじゃ」 「……金や土地が幻影から解き放されるのは、人間が悧口になるからですか」 「いや、反対。人間が馬鹿になるからじゃ。馬鹿は夢を見ないからな」 「どうして人間が馬鹿になってしまうんですか」 「機械のためだな。現に電算機が出来たために、人間の暗算力が相当退化しはじめとる。ワープロを使うと、字が読めるが大半の字が書けなくなる。昔から読み書き算盤《そろばん》、それが知力の基本。その基本が退行すれば、全ての知性も衰えていく道理じゃ。今、人間は退行をはじめたばかり。これが、どんどん進んでいく。自分の作った罠に自分で嵌《は》まるとは、このことを言う」 「もっと退行が進むと、どうなるんでしょう」 「今、最先端の技術を管理する能力もなくなるから、原子力、宇宙開発、バイオテクノロジー、いずれも自然に消滅してしまう」 「……それから?」 「それからは誰にでも判る。人間は今来た道を引き返していく」 「時代が、明治、江戸と後退してしまうんですか」 「その通り。あの時代には、宵越しの金など持たぬが江戸っ児の意気じゃった。まして、安い家賃や地代で暮らしていけるものを、無理をして土地を買う馬鹿はいない」 「なるほど、金と土地が価値を失うわけですね。すると、今度は何が価値を持つようになるんですか」 「これも、以前のことを考えれば判り易い。その時代、幻影の力を持っていたのは、地位と身分じゃろうが。人間は全部、地位と身分で区分けされておった。大名の子なら腑抜けでも阿呆でも大名。百姓の子はどんな才能を持っていたところで、肥桶《こえたご》をかついで畠の中を歩き廻らなきゃならん。考えて見りゃ、気は楽じゃ」 「それで、総裁は肩書きを集めているんですね」 「……うむ。実はこれは大秘密じゃがな。他人に吹聴しては困る。これからは金や土地の時代じゃない。今言った通り家柄身分に幻影が戻る。今、爵位なんどは安く手に入るから、せいぜい買い集めていた方がいい。そのうち、大名なども息を吹き返すじゃろうから、よろしき家系の者と姻戚関係を結んでおくと、これがとてつもない投資になる」  百田は進介の胸のバッジを見て、付け加えた。 「君も神様を信仰しているようだが、時代は退行している。これからは神よりも仏だ。仏に金を掛けるべきじゃ」  進介はそれでやっと自分の立場を思い出した。 「赤荼羅《あかだら》会の天空先生は不滅です」 「そんなことを言っていると損をするぞ」 「損得には関係ありません。私は神を信じます」 「……神に理論は通じないようじゃ」 「僕もそう思います」 「それでは以後、目通り叶わぬ」 「僕も顔を見たくない」  海方まで嫌な顔をしていた。ときどき、思うようになれないと、特犯の部屋でも見せる顔だった。百田はそれ以上、進介には興味を示さなくなって、海方の方に顔を向け、 「探偵、今晩のメニューは何だ」  と、訊いた。海方は舌なめずりでもするような顔になった。 「へえ、今晩はまた結構でございますよ。今回はぐっと和風の季節料理で、前菜は枝豆にチーズの筏造《いかだづく》りと小芋の海老しんじょ詰め。この間も芋を頂戴しましたが、ちと、灰汁《あく》抜きに難がありまして、シェフにそれとなく注意しておきましたから、今晩の出来が楽しみで。それから養老豆腐《ようろうどうふ》。これは寒天豆腐に素麺《そうめん》を付け合わせたもので、生野菜は巣籠りといいまして、温泉卵を千切りの野菜の中に落として巣に見立てたもの。煮物は関西風に、蛸、南京《なんきん》、茄子《なす》の炊き合わせ——」  進介は百田のテーブルを離れ、海方に倣《なら》って、カウンターの水差しを取り、グラスに水を注いだ。  カウンターの向こうで、料理の盛り合わせをしていた一番年上のキチンメードが進介の顔を見て声を掛けた。 「あなたが、小湊さんね」 「そうです」 「料理ができましたら呼びますから、取りに来て下さい。お食事が済んだら、食器をここに戻すようにね」  メードは三人だった。その奥で、大鍋を動かしているコック帽の男が栄養科主任らしい。  カウンターの前に、低い仕切りが立っている。その上に、造花が飾られているのだが、その仕切りが食堂を二つに分ける感じで、その狭い方が海方たちのいる精神科、その反対側を外科と内科の入院患者が利用するようになっているらしい。内科側は人の集まりが早く、もう食事を済ませて食器をカウンターに戻している患者もいる。  進介はグラスを持って、海方と背中合わせになるように、テーブルに着いた。海方の話がよく聞こえるためにだ。  海方は百田に話を続けている。 「聞くところによると、ここの食堂のシェフは、元、ムッシュウ ランバンのところで働いていたそうで。腕は確かなわけです。そんな経歴を持っている男ですから、引く手あまたでしょうに、欲がないんですな。もっともそのお陰で我我は結構な料理が頂戴できる、というわけで」 「しかし、ここの米はちっとも旨くはないぞよ」  と、百田が言う声が聞こえた。 「それそれ。それだけが難ですな。もっとも、米のひどいのはシェフの腕じゃない。予算の関係だそうで。もっとも、こういう米でなければならない料理もある。昼食のバターライスを覚えておいででしょう。パエーリャ バレンシアーナなどにもよろしいかと愚考しますが、なにせそれにはサフランとオリーブ油をたっぷり使わなければならない。消化という点を考えますと、これがまた問題が生じて、シェフは腕をふるえないのです」  そのとき、進介のテーブルの前にグラスを置いた者がいた。鈴木老人だった。 「ここに来て、いいべか」  返事をする前に、鈴木はもう椅子に腰を下ろしていた。 「独りの食事はどうも味気がねえ」 「いつも、ここで食事をするんですか」 「ああ。何しろ内《うち》の嫁は朝寝坊で、夕食もそれにつれて遅いものだから、待っちゃいられねえだ。いいことに、今度の栄養科主任は病院の料理人にしちゃ勿体ないほどいい腕をしている。冷暖房は完備しているし保険はきく。天国だわさ」  鈴木はグラスの水を口に含み、二、三度両頬に移動させてから飲み込んだ。潔癖症の秋代と相性がいいとはとても思えない。 「あんたどんな事をしているかね」 「……普通のサラリーマンです」 「どんな会社だべ」 「公務員、です」 「じゃ、内の孫と同じだ。町役場の衛生課でネズミを捕えている。綺麗な奥さんと一緒だったが、赤荼羅会で識り合ったんじゃねえべ」 「……判りますか」 「ああ。赤荼羅会に理解がある神さんと一緒なら、病気などにはならねえだ」 「僕の妻が悪いと言うんですか」 「いや、そう言ったんじゃねえ。人間、生きていりゃ誰でも病気が出るわさ。生きているってことは、一番身体によくないことだ」  進介は話題を変えようと思い質問することにした。 「おじさんはこの病院で知らないものは一つもないんでしたね」 「そう。二○二号室の患者以外にはな」 「ここに、幽霊が出る、という噂は?」 「ああ、知っている。暗がりで目を光らせるって奴だ」 「実際に見たんですか」 「いや、出会っちゃいない。恐くなったのかい」 「いいえ」 「そうだろう。大の男だ。デマに決まっているべえ」 「デマ?」 「ああ。そんなことはしょっちゅうさ。戦前にもあったし、戦時中にも、戦後にもあった。なにしろ、病院は人のよく死ぬところだからね。中でも一番凄かったのが戦時中ので、この病院の薬を飲むと人間が蜥蜴《とかげ》に変わるという噂が立ったんで、患者が少なくなったことがあっただ」 「蜥蜴……ふしぎな噂ですね」 「いや、一口にばかばかしいと言えねえだ。そんな噂が流れるような事情があったんだ」 「この病院に?」 「そう。当時は絶対の秘密。こんなことを他所《よそ》で喋りもしようものなら首が飛ぶ。今だから話せるがね」  と言うものの、鈴木は進介の方に顔を寄せて声を低くした。 「先代の院長は、戦争がはじまるとすぐ病院の地下を改造して防空壕を作り、その中で秘密の研究をはじめただ。軍からの嘱託で今までにない毒薬を作り出すことだった」 「……毒薬?」 「そう。日本は資源の乏しい国だべ。戦争末期になると肝心な硬貨を作る金属さえ不足してしまい、焼物に代えようとした。陶貨というんだがね。実際に製造されたんだが、敗戦になって一般には流通しなかっただ。それほどだから、武器は最初から不足していた。それに較べれば毒はごく少量で人が死ぬ。その材料は薬九層倍《くすりくそうばい》というほど安い」 「……どんな毒薬だったんですか」 「それがな。蜥蜴の毒であった」 「蜥蜴に毒があるんですか」 「大ありだわさ。大体、爬虫類にゃ毒を持っている奴が多い。動物の毒の横綱は蛇と蠍《さそり》、蝦蟇《がま》の毒を知っているべ。蟾酥《せんそ》といって麻酔鎮痛の漢方薬だ。蟾酥の取り方を教えてやるべ。まず、大きな蝦蟇を取って来て、大蒜《にんにく》と胡椒《こしよう》を練り合わしたものを口の中に一杯に詰めてやる。すると、蝦蟇の奴はもがき苦しんで乳白色の液を身体中から分泌する。これを竹箆《たけべら》で採ってから、辰砂《しんしや》という薬とテレピン油に混ぜ、更にマンディゴ油を加えたのが蝦蟇の油だ」 「よく知っていますね」 「昔はここら辺でも蝦蟇が多くいただ。暇なときにゃ蝦蟇の油を作って小遣い稼ぎをしたものさ。蝦蟇の油の他には長命丸も作った」 「長命丸?」 「若い者は知らねえべなあ。これも軟膏でな、効能書にはこう書いてある。この薬用いて妙は温にして太さ常にまさり勢い強くして長久なること神のごとし、さ。判るかね」 「ははあ……」 「しかし、多用すれば毒になる蟾酥が入っているだ」  メードが進介と鈴木の名を呼んだ。  カウンターに行くと、海方が百田に説明した通りの料理が銀盆の上に並んでいた。不用意に手を伸ばそうとすると、傍に来た鈴木が注意した。 「手を洗わねえと主任に叱られるだ」  鈴木は先に流し台の前に立った。手を水で濡らして拭く、といった程度の雑な洗い方だった。 「石鹸を使わねえ方がいい。匂いが残ってものがまずくなるだ」  と、鈴木が教えた。  進介が手を洗って盆をテーブルに運ぶと、鈴木はもう豆腐を口に入れていた。 「ここの主任は腕がいいだけあって、潔癖だ」 「石鹸を使わないとうるさいんですか」 「そう。料理人の癖に妙な男だ」 「その——戦時中の話の続きなんですが」 「ああ、長命丸の作り方ね」 「いえ、蜥蜴の方なんですが」 「蝦蟇の油の話をしていたんじゃなかったべか」 「ええ、横道に逸《そ》れたんです。ここでは蜥蜴の毒を研究していたんでしょう」 「そうだった……蜥蜴にも毒がある。知っているだか」 「いいえ」 「ありゃ、大正のころ——いや、昭和のはじめだったべか。とにかく、東京神田の下宿屋で三人の書生《しよせい》が死んだ。警察が事情を聞くと、その三人は前の晩、牛鍋を食っていた。なお調べてみるとアオトカゲがその鍋の中に入っていたことが判っただ。葱《ねぎ》の葉の中にアオトカゲが隠れていたのに気付かず、それを切って鍋の中に入れたんだ。蜥蜴は尾に猛毒があるという。一匹の尾で、三人の男を殺したんだから凄いべ」  進介は料理に手を付けたが、鈴木の話が気になってゆっくり味見することができなかった。 「なんでも、蜥蜴の毒も昔から知られていて、漢方では|蛤※[#「虫へん」+「介」]《こうかい》と言うんだ。蝦蟇の方は有名で蟾酥《せんそ》の成分も知られているが、|蛤※《こうかい》の方は当時まだあまり研究が進んでいなかったんだな。大先生達は秘かにこれが毒兵器にならないかという研究をはじめたわけだ。俺が蝦蟇を捕えるのを知っていたから、大先生はその|蛤※《こうかい》という奴がここいら辺にいないかと尋ねられた」 「普通の蜥蜴じゃないんですか」 「そう。実物を見せてもらうと、ここではベットウトカゲと呼んでいる奴だった。これでしたらいくらでもいますと答えると、大先生は非常に喜ばれた。それから、俺は蝦蟇の方をそっちのけにしてベットウトカゲばかり捕えて病院へ運ぶことになっただ。なにしろお前、軍が後ろにいるものだから、金に糸目は付けねえ。持って行けばいくらでもお買い上げだ」 「どんな蜥蜴なんですか」 「そうさな。小さいので三、四寸。大きいので七、八寸もある。首は蛙に似ていて背に細い鱗《うろこ》があって尾が長い。色は青味がかった黄色で、大先生はその雄を蛤《こう》、雌を※[#「虫へん」+「介」]《かい》と言うんだと教えてくれただ。雄は小さくて雌の方が大きい。雌雄が抱き合っているのを離そうとすると、これが執念深いてのか身体が裂かれても相手を放さねえ。なるほどこれを人が食えば死にそうだ」 「それで、毒の成分は見付かったんですか」 「そうさなあ。なんでも、|蛤※《こうかい》の毒は尻尾《しつぽ》のところにあるらしいんだが、蝦蟇と違って、苦しませて油を出したところを集める、というふうに簡単にゃいかねえらしいだ。でも、昔から漢方にされているくらいだから薬効は確かだ。大先生はこの毒をリザドトキシンと呼んでいた」 「リザドトキシン……その毒を合成することができたんですか」 「そんなことまで俺が判るわけはねえ。なにしろ、大先生も傍に俺がいることをうっかりしてリザドトキシンなどという言葉を洩らし、気が付いて今の言葉は絶対に外で言うなと恐い顔をされたほどだ。それで、逆に俺はその言葉を覚えてしまったんだ」 「その研究所はこの病院の地下にあったんですね」 「そう。学生みたいな若い者が、五人いただ」 「研究はいつまで続いたんですか」 「敗戦の日まで。ラジオで陛下の詔勅を聞いて病院へ来てみた。すると大先生は大慌てで若い者を指示して地下室の医療器械をトラックに積み込んで運び出そうとしていた。一方、庭には書類を積み上げて火を付ける。ここでも厳重に口止めだ。いいか、今のは見なかったことにするんだ、とな」 「その後、病院は進駐軍に調べられたりはしなかったんですか」 「ああ、ときどき進駐軍の姿は見掛けたが、大勢が来て調べられるようなのはなかったと思うだ。俺は敗戦のお蔭でベットウトカゲが売れなくなってしまったから、闇屋《やみや》になった。病院がヒロポン中毒者ばかりになったのはもう少し後だ」  敗戦では製造されていた陶貨も日を見ないで終った。リザドトキシンもそれに似た運命だったはずだが、すでにその成分や薬効も研究され、合成される段階に入っていたのではないか。 「そのとき、この病院の薬を飲むと蜥蜴に変わるなどという噂が立ったんですね」 「そう。何の暗合か知らないがびっくりしただ。早速、大先生のところへ、あの噂は私じゃありませんと言いに行っただ」 「……さっき鳴ったのは、ここの鐘楼の鐘なんですか」 「ああ、そうだ。久し振りに聞くいい音色であった」 「すると、しばらく鐘を撞《つ》いていなかったんですか」 「大先生の奥様が敬虔《けいけん》なクリスチャンで、そのために鐘楼をお造りになったとのことです。昔は朝に晩に美しい鐘の音が遠くまで響き渡ったものです」 「いつごろから鐘を撞かなくなったのですか」 「戦争がはじまったからだ。なにしろ、あの時代は耶蘇教《ヤソきよう》は敵国の宗教だったべ。今なら遠慮なく鳴らせばいい。こう思っていただが、何しろ隣の風鈴が喧《やか》ましいというような人間がいるという。いや、一昨日《おととい》の朝、鐘の音を聞いて夢かとびっくりしただ。さすが院長は偉い。なにしろ、大先生の息子だからなあ」  鈴木は目を輝かせた。 「昔からあるちゃんとしたものを放って置くのはよくねえことだ。それなら、戦争中の防空壕もそのままになっているから、あれも改修して何かに使った方がいいだ」  そのとき、食堂の入口で物音がした。見ると、一人の男が顔を真っ赤にさせて布に包んだ平たいものを運び込んで来た。男はそれを鈴木の後ろの壁に立て掛け、手を伸ばして壁に出ている鉤《かぎ》を確かめた。 「事務員さん、何だね」  と、鈴木が声を掛けた。 「絵ですよ」 「ほう……絵とは素敵だ。レストランみたいになるね」  男は注意深く包んであった布を取った。銀色の額縁に収められた油絵だった。こぼれるほどの鮮やかな色彩でそのあたりが明るくなった。男はそっと壁の鉤に額を掛けた。 「真っすぐかね」  男は鈴木に同意を求めた。 「うん、真っすぐだ。こりゃあ、綺麗だ。部屋が見違える」  何気なく絵を見た進介は、段段とその絵から目を離せなくなった。 「ねえ、鈴木さん。あの百合の間からこっちを覗いているのは、蜥蜴じゃないんですか」  五章 フェニルチオカルバミド  |蛤※《こうかい》というふしぎな蜥蜴《とかげ》の話をしていたばかり。それで絵の中に蜥蜴が見えたのか。  実際、先入観なく見れば、色とりどりに咲き輝く百合のひしめきで、爛漫に宿る狂気のような気配は感じられるものの、画面の向こうで息付いている動物の臭いなど感じられなかっただろう。  蜥蜴と聞いて、鈴木は立って絵に顔を擦り寄せるようにした。 「うん……いる、いる」 「何がいるんですか」  と、事務員が訊いた。 「いや……どれもが美事に咲いている」  鈴木はあいまいに言って進介の前に戻った。 「何匹か、花の間からこっちを見ている。気色の悪い絵だ」 「蜥蜴でしょうね」 「そう。俺が獲っていた、ベットウトカゲの目に違いねえ」 「誰があんな絵を描いたんでしょう」 「サインがあったが、俺は横文字はだめなんだ」  進介もさっきからサインを気にしているのだが、崩し方がひどくて読み取れない。 「勿論、ベットウトカゲを知っている人が描いたんでしょうね」 「それに違いねえだ」 「……今の院長は、戦時中ここに住んでいたんですか」 「うん。戦後改築する前で、屋根裏に自分の部屋があった」 「地下室で大先生が研究していたことは知っていたんでしょうね」 「ああ。当時、十七、八かな。研究の手伝いもしていた」 「とすると、当然、ベットウトカゲも見ているはずですね」 「そうさ。俺は獲物を若先生に渡したこともあっただ」  進介は質問を中止した。傍を男が通り掛かったからだ。黒っぽいタートルネックのセーターを着た力松だった。  力松は食事を済ませたようで、ハンカチで手を拭きながらぶらぶら入口の方に歩いていたが、絵に気が付くと歩く方向を変えた。 「ほう……目が覚めるみたいだ」  進介は絵を見る力松の目が気になった。立っている姿は食後のけだるさを表わしていたが、視線だけが張り詰めた光で輝いている。 「綺麗な花だね」  力松は職員に話し掛けた。緩《ゆる》んだ声帯から出た声だった。 「誰かの寄贈ですか」  職員はちょっと力松を見て、絵を包んであった布を畳みはじめる。 「いや、院長が持っていた絵らしいですよ」 「院長先生の趣味は絵なんですか」 「……さあね」 「先生は他にも絵を持っていますか」  職員は変な顔をして力松を見た。力松はそれをはぐらかすように、 「美しい花には刺《とげ》がある」  と、ものを読むように言った。 「こりゃちょっと古かったかな。美しい絵には毒がある……どうです」 「…………」 「この鮮かな赤、この絵具は何から作ったか知っていますか。カドミウムですよ。イタイイタイ病の元凶。青色はシアン。シアン化カリウムは別名青酸カリ、毒薬の王様。白色は鉛、水銀から作る絵具もある」  言いながら、力松の顔にはある恍惚《こうこつ》が現われていた。絵の奥の蜥蜴を見出したとは思えない。絵に見惚《みと》れているといった感じだった。  職員は畳んだ布を持って入口の方へ歩き出した。力松がそれを追う。 「ねえ、院長はどこからこの絵を持って来たんです?」  二人と入れ違いに、明るい色彩が外から舞い込んで来た。  オレンジ色のワンピースの裾を波打たせた早崎桃子が、珊瑚の後を追うようにして食堂の入口に向かっている。桃子は医師の笹木と一緒だったが、笹木が追い付いて来た様子だった。進介は心配そうな桃子の顔しか知らないので、違う服だったら別人かと思ったに違いない。  桃子は入口で立ち止まり、食堂の中を見廻して、進介と目が合うと愛想のよい笑いを投げ掛けてきた。舞台に登場した女優を思わせる態度だった。それだけに、傍にいる珊瑚が影ほどに暗い。 「あの女にゃ、気を付けた方がいい」  それを見ていた鈴木が言った。 「判るだろう。こんな年寄りでもふしぎな気になるときがある。ああいうのも一種の病気だ」 「……病人は娘の方なんでしょう」 「そりゃ、そうだが、あの女だって立派なものだ」  笹木が小声で桃子になにか言った。桃子は困ったように顔を固くする。笹木はそれには構わずカウンターに寄り、メードに声を掛けた。 「早崎さんたちは食事。俺には珈琲《コーヒー》をお願いします」  その間、桃子は流し台で手を洗い、カウンターの上にあるグラスを三つ銀盆に載せ、水差しから水を注いで、進介のいる横のテーブルに運んだ。珊瑚が桃子の横に腰を下ろし、笹木が桃子の前の椅子を引いた。 「ありがとう」  笹木が銀盆のグラスを受け取った。桃子は空いた盆をカウンターへ返しに行く。  笹木は煙草に火を点《つ》けた。煙は珊瑚と反対の方に流れていったが、珊瑚が顔を曇らせるのが判った。  桃子が戻って来ると、笹木はなにか言った。笹木の声は低く、進介の耳に届かない。 「わたしは、つまらない女です」  と、桃子が言った。 「先生は買い被っていらっしゃる……もし、そうなら……」  言葉は途切れ途切れに聞こえるだけだったが、桃子が否定めいたことを言うと、それが、本人の意に反して違う色気を帯びてしまう。自分ではそれを弁《わきま》えているのだが、どうしたらいいのか判らない。進介はしばらくすると、桃子の華やぎの裏に潜む苦渋を感じ取った。  進介はそのときの状景を、後になって何度も思い出さなければならなくなるのだが、進介の知る限りカウンターに立ち寄って怪し気な素振りをした者は一人もいなかった。桃子の手元もよく見ていた。桃子はカウンターの上に並んでいるグラスを三つ手元に引き寄せて、銀盆の上に載せ、水差しを手に取り、ごくあたりまえに三つのグラスに水を満たし、進介がいる横のテーブルに運んだ。  その三つのグラスは進介のいる位置から見えている。 「前のときも……そうだったと思うんですけど……そういうことになったのは……わたしが平凡すぎたから……それ以下かしら……平凡ぐらいだったら……できますものね」  桃子は頬笑《ほほえ》んだが、進介には苦渋が読めた。笹木がまた、なにか言った。 「先生は……ですか。でも……をなさった経験は……わたしはもうだめですわ……だし……でしょう……」  珊瑚は相変らず無表情で桃子を見ていたが、グラスを取り上げて口にした。そのとたん、顔を顰《しか》めてグラスをテーブルの上に戻した。 「どうしたの?」  珊瑚は上目遣いに桃子を見たまま、今置いたグラスを指差す。 「これ、今、わたしが持って来た水じゃない。これがどうしたの」 「変なの」  珊瑚はそれだけ言って怒ったような顔をして水色のハンカチを拡げて口を覆ってしまった。桃子はしばらくその意味がよく判らないようだった。珊瑚は指でグラスを桃子の方に押した。桃子はそのグラスを取ってそっと中の水を口に含んだ。そして、 「あら、本当。変だわ、この水」  手荒くグラスをテーブルに戻して口に手を当てた。 「先生の、変じゃなくって?」  笹木は怪訝《けげん》な顔で、自分のグラスに手を伸ばした。 「変な味、しませんか?」  笹木はグラスに口を当ててから首を横に振った。 「じゃ、この味をみて」  笹木は桃子の前のグラスに持ち換え、口に運んだ。すぐ、口をすぼめ、 「これは……ひどく苦い」  桃子は珊瑚の顔を見た。 「あなた、わたしを疑っているの?」  珊瑚は黙ったままだった。 「わたしがこのグラスに変な物を入れたと思っているんでしょう」  珊瑚が何も言わないので、桃子の方が被害に遭《あ》ったように顔を歪めた。 「あなただって見ていたでしょう。わたしはグラスを運んで来ただけなのよ」 「そうだ、僕も見ていた」  と、笹木が言った。  桃子は椅子を押し退《の》けて立ち上がり、三つのグラスを持って行って、カウンターの上に置いた。 「この水、苦いわよ」  そして、入口近くの流し台に行き、水道の栓をひねって、備え付けのコップで口をすすいだ。流し台が空くのを待って、笹木も口をゆすぐ。 「一体、どうなっているんだね」  笹木は荒い口調でメードに言った。  メードは目の前に三つのグラスを並べられて、はじめ呆《あ》っ気《け》に取られていたが、その一つをおずおずと取り上げて口へ。それを、すぐ、前の流し台に吐き出した。 「なにを騒いでいるんだね」  奥から栄養科主任の福岡が近寄って来た。  温和な下脹《しもぶく》れの顔で、大きな口と耳がまず目に映る。 「主任、この水、おかしいんです」  と、メードがカウンターの上を指差した。 「口の中がひっくり返るほど苦いんです」  福岡はグラスを持って、その水を飲んだ。 「普通の水じゃないか」 「もう一つの方なんだ」  と、笹木はメードの持った方のグラスを指差した。  福岡はそのグラスと持ち換え、前と同じように水を飲み、天井を睨《にら》んだ。 「ね、変でしょう」  と、メードが言った。  福岡は口の中の味が信じられないといった顔になり、すぐ水を流し台に吐き出した。 「一体、何を入れたんだね」  と、笹木が追及する。 「何も入れやしません。水道の水を注いだだけです。水差しは食堂を開ける前に洗っていつものように氷水を作ったばかりです」  福岡は他のメードにも訊いた。他の二人のメードも、水差しには近付かなかった、と答えた。 「水差しからグラスに水を入れたのは?」  と、福岡が最初のメードに訊いた。 「わたしよ」  と、桃子がメードに代わって答えた。 「でも、わたしがこの中に変な物を入れるわけがないでしょう」  笹木が口を挟んだ。 「僕は早崎さんの傍にいましたから、保証しますよ。早崎さんはカウンターでグラスに水を注ぎ、テーブルに運んで自分でグラスに口を付けるまで、グラスの上に手もかざしませんでしたよ」  それは、進介も見ていた通りだった。  福岡があたりを見廻した。 「早崎さんの前に水差しを持った人は?」 「鈴木さんと小湊さんです。今日、入院した」  と、メードが言った。  メードの視線を追って、全員が進介の方を見た。  意外なとき、自分の名が出たので、進介はすぐには言葉が出なかった。  福岡が進介に呼び掛けた。 「済みませんが、そのグラスを持って来て下さい」  進介は自分と鈴木の二つのグラスを持って、カウンターへ歩いて行った。 「その水は味が変わっていませんでしたか」  と、福岡が訊いた。 「いえ、普通の水ですよ」  と、進介が答えた。福岡はそれでも疑わしそうな目で進介が持って来たグラスを見ながら、 「君、味見してごらん」  と、メードに言った。メードは慌てたように首を振った。 「わたし、だめです。まだ、舌が苦くて痺《しび》れているんです」  福岡に言われて、他のメードがグラスに口を付け、何ともなっていません、と答えた。そのメードは新しいグラスに水を注ぎ、味見をしてから矢張り異状はない、と言った。 「水差しが何でもないとすると、グラスの方に苦い物が入っていたのね」  と、桃子が言った。  メードはアルミの角皿に並んでいるグラスを指差し、グラスも洗ったばかりです、と言った。まだ使われていないグラスは、きちんと角皿の上に伏せられている。だが、桃子は納得しなかった。 「ねばねばした薬を底に付けておけば、逆さにしてもこぼれないでしょう」  進介はグラスを見渡したが、どのグラスもぴかぴかで、小さな埃《ほこり》さえ付いていなかった。 「勿論、桃子さんが取った、一つのグラスにだけ付けたんだ」  と、笹木が強く言った。福岡が顔を顰《しか》めた。 「誰がそんな真似をしたんです」 「僕達がここに来るすぐ前、このカウンターに近付いた者だ」  笹木は進介の方を振り向いた。 「君かね」  進介は必死になって、ただ、違う、と言った。メードがささやき合う声が聞こえる。 「違わないわ。きっと、神様のお告げに従って、そんなことをしたんだわ」  進介はこの病院の中の情報の早さにびっくりした。  そこへ、鈴木が席を離れて寄って来た。 「この小湊君はずっと私と話をしていた。あのコップまで手が届きはせん」 「手が届かなければ、投げ込んだんだろう」  と、笹木が言った。 「投げ込めば水がはねますよ」 「ずいぶんこの人の肩を持つね」 「小湊君はいい人だ」 「いや、いい人じゃない」  近くのテーブルから声がした。楽修だった。 「その人は僕の真理を買わなかった。だからいい人じゃない」 「あんなものは真理じゃない」  と進介が言い返した。 「ただの紙切れだ」 「紙切れを紙切れと交換するのが悪いか」 「神様にけちを付けるのが最も悪い」  と、鈴木が盛んに唾《つば》を飛ばす。  進介の背後で聞き慣れた声がした。 「いや、皆さん。こうした詮索は探偵めにお任せ下さい」  気が付くと、後ろに海方が腹を突き出して立っていた。 「海方さん、聞いていたのかね」  と、笹木が言った。 「勿論、探偵の耳は地獄耳でございます。この二つの目でも、ちゃんとカウンターを見ておりました。この若者は、水を取りに来ましたが、決して怪しい振舞いは行なっておりませぬ」 「……君の言うことを信用しましょう。だとすると、一体、誰がこんな変なことをしたんだ」 「はて。ここでお働きのマドモアゼル方も、このグラスは洗ったばかりだとおっしゃる。その証言も真実でありましょう」 「それじゃ、誰もこのグラスに物を入れることはできないじゃないか」 「左様。その犯人は誰にも見えなかった人物ということになる。しかし、探偵の立場として、たとえ真実でもそんなことは言えない。ちょっと、失礼しますよ」  海方は意外な身軽さで、カウンターの上に飛び乗った。何をするのかなと思って見ていると、海方はポケットからルーペを取り出して、カウンターの真上の天井を見廻しはじめた。 「呆《あき》れた。天井に穴が開いていて、そこから何かが落ちて来た、と思っているんだ」  と、笹木が言った。  しばらくすると、海方はルーペをポケットに戻して、カウンターから降りた。 「天井に穴が見付かったかね」  と、笹木が訊いた。海方は難かしい顔をした。 「いや、針で突いた穴もありません。この犯人は、矢張り幽霊でしょう」  がたん、と音がした。  進介が音の方を見ると、隅でひっそりと食事をしていた女性が椅子をひっくり返して立ち上がったところだった。 「和多本さん、どうしたんですか」  と、笹木が傍へ寄った。  六十前後。痩せた長い顔に度の強い卵形の眼鏡を掛けている。髪はボブカットでお世辞にも似合うとは言えない。着ているものも、襟を大きくしたセーターだけが目立ってしまう感じだった。和多本秋代は使っていた象牙の箸《はし》を箸箱に入れた。 「どうもこうも、ないわよ」  秋代の喋り方はほとんど唇を開かない。そう言うと、秋代はテーブルの上にあった銀色のケースを取り上げた。中には消毒用の脱脂綿が詰め込まれている。秋代はそのケースの蓋を閉め、箸箱と一緒に赤皮のバッグに入れた。  秋代はそれまで、食事の手を休め、気味悪そうにカウンターの方を見ていたのだが、とうとう堪えられなくなったらしい。 「ああ、嫌だ。お水がこれじゃ、お料理に何が入っているか判らないわ」  そう言いながら、ほとんど手を付けていない料理を残して、さっさと食堂から出て行った。 「これは、質《たち》の悪い、陰謀だ」  と、主任の福岡が言った。 「陰謀?」  と、海方が訊き返した。 「そう。俺が作った料理の味を変にして、栄養科主任を失脚させようと企んでいる奴がいるんだ」 「シェフ。そんなとんでもない奴は誰でしょう」 「それが判りゃ愚図愚図しちゃいない。肉叩きで平《たいら》にしてカツレツにしてくれるわ」 「そのときには、ぜひ私めもご相伴《しようばん》にあずかりたいものですな。いや、どうして、今日も結構でしたよ。あの蛸《たこ》の柔らかさなどは。なかなかこうはいきません。総裁、お判りになりますか。あのスパイスの使い方は、キュイジーヌ ヌーベルですな。ただ、塩分を制限されている点が泣けますな。シェフも残念でしょう。私も口惜《くや》しい」 「あんたはよく判る人だ」 「その、素晴らしい味を変えるなどとは美術を破壊するに等しい行為ですな」  そのとき、婦長の田中留美子と看護婦の花住玲が食堂に入って来た。 「何を騒いでいるんですか」  と、留美子は言った。 「今、和多本さんが血相を変えて出て行きましたよ。どうしたんです」 「別にどうもしません」  と、福岡が言った。 「急に気分を悪くしたようです」 「誰か、和多本さんが気分を悪くするようなことでもしたんですか」  海方が気取った足取りで一歩前に出た。 「どうやら、このレストラン——いや、食堂に幽霊の気配がするのです」 「……幽霊ですって」 「その通り。姿の見えない幽霊が、悪さをしました」 「幽霊なんて、ばかばかしい」  笹木が真面目な顔で留美子に言う。 「いや、一口にそう片付けられない節もあるんです」 「先生まで幽霊を?」 「別に信じちゃいませんがね。理解に苦しむ方法で珊瑚ちゃんのグラスへ変な物を投げ込んだ者がいるのです」  笹木は手短かに今の出来事を説明した。 「それだけではないのです」  と、海方が口を挟む。 「少し前、世界銀行の総会報告会の席上で、総裁の魔法瓶の中に、怪しい物を混入した者がいるのです。この、探偵の目を眩《くら》まして、ですぞ。この目でそれが見えなかったとすると、幽霊以外の何物でもない」  看護婦の玲は興味深そうに皆の話を聞いていたが、 「その、変な物が入れられたというグラスはどれなの」  と、福岡に訊いた。 「この、グラスです」  福岡は気味悪そうにカウンターの上に置いてあるグラスを指差した。  玲はそのグラスを手に取り、中を透かして見てから、そっと唇を当てる。 「本当……苦いわ。婦長、ちょっと」  玲は留美子にグラスを手渡した。留美子も同じようにグラスを口に運ぶ。留美子は首を傾《かし》げたままだった。 「この味、知っているような気がするんですけど」  と、玲が言った。 「わたしには判らない。花住さんは知っているの?」 「ええ……これ、ほら、あれだと思うんですけど。笹木先生は?」  笹木は難かしい顔で言った。 「さあねえ……」 「……ほら、PTCの味でしょう」 「PTC……ねえ」  笹木はすぐには判定できないようだった。 「毒薬だ」  遠くでわめいた者がいる。空の食器を前にした楽だった。 「全員、毒薬を飲まされたんだ。薬が廻ると、皆殺しだ……」  楽は立ち上がり、人差指を前に突き出した。 「その、毒殺魔は、お前だ」  進介が指の方向を振り返ると、一人の男が食堂の入口でびっくりしたように足を止めている。  黒っぽい紺の背広にグレイのネクタイ。前髪を庇《ひさし》のように突き出している、三十前後の男だった。 「双橋さん、あんたでしょう。皆に毒を飲ませたのは」 「……僕が、どうしたって?」 「惚《とぼ》けるんじゃない。単純な計算だ。新入りの人は別にして、入院患者でまだ毒を飲んでいないのは、君しかいないものな」  双橋はへらへらと笑い、楽にあかんべえをして見せた。 「皆さん、お静かに、びしからっしゃい」  と、海方が言った。 「探偵の面目にかけて、早早に幽霊の正体を暴《あば》いてご覧に入れまするからご安心下さい。まず、お席の方へ」  進介が席に戻ると、鈴木が言った。 「どうも、気に入らねえ」 「一体、何がどうなっているんでしょう」 「それもだが、あの探偵も気に入らねえ。聞いたか、びしからっしゃいだと。どこの国の言葉だ。鼻持ちならねえ」 「顔もひどいですね」 「ああ。あれで人に取り入る天才だ。見ていねえ」  海方の毒気に当てられたように、食堂は静かになり、全員はテーブルに落着く。  食事が済んで、海方が空の食器をカウンターに運ぶと、福岡が竹の皮に包んだ物を手渡すのが見えた。  鈴木が進介に教えた。 「あれは、探偵の夜食だ。福岡を煽《おだ》て上げて、握り飯を作らせているんだ」 「このお薬を飲んでしまえば、今日することはお終《しま》いです」  玲はそう言いながら、ワゴンの上に載せた薬袋を開いた。 「ラジオも聞いちゃいけないんですか」 「そう。先生から説明されたでしょう。二、三日は安静にすること」 「こんなに早く寝たことはないんだがな」 「大丈夫。静かにしていれば、すぐに寝られます」  玲は水差しからグラスに水を入れて薬と並べた。  多分、精神安定剤なのだろう。これを飲んでしまうと、眠くなるに違いない。それでなくとも、たった今、奇妙な出来事が起こったばかりだ。人の命がどうのということはなかったが、これから先、どんな事件が持ち上がるかもしれない。進介が考え込んでいると、玲は進介が薬を飲むのを見届けるように動かない。 「この病院は誰にでもこんなに優しいんですか」 「最初のうちだけ。慣れないでしょうから」  以前、投薬を嫌い、看護婦がいなくなった隙に、捨てていた患者に出会ったのだろう。 「飲まなきゃいけないんですか」  進介は不安そうな表情をして見せた。 「ええ、飲まないといけません」  花住は言葉だけを強くして、そのまま頬笑《ほほえ》んでいる。 「でも、ここには変な人がいて、他人のグラスの中へ苦い物を投げ入れるんです」 「この水なら大丈夫よ。わたしが持って来たばかりですから」 「その人は、目に見えないんですよ。今、この部屋にいるかもしれない」 「……誰ですか。そんなことを言い触らすのは」 「少し前、食堂で珊瑚ちゃんが苦い物を飲ませられようとしたじゃありませんか」 「そうね。でも、それは何かの間違いでしょう。この世の中に見えない人なんているはずはありませんからね」  玲自身、そんな話は少しも信じていないだけに、相手にも否応《いやおう》言わせない。進介は仕方なく薬を口に入れた。赤いカプセルが一つと、あとは散薬だった。散薬は甘ったるい味がした。 「あまり、他人のことを気にしない方がいいんですよ」  花住は進介が薬を飲むのを見届けると、満足したように言った。 「でも、一つだけ教えて下さい。PTCって何ですか」 「……さっきの話を聞いていたの?」 「ええ」 「気にしないこと、と言ったでしょう」 「そう言われると余計気になります。毒なんですか」 「毒なんかじゃないわ。ただ、苦いだけの薬です」 「ただ苦いだけの薬だなんて」  玲は仕方なさそうに説明した。 「PTC、正しく言うとフェニルチオカルバミド。苦いだけで、人体には全く影響しません。判ったわね」 「そんな薬、どんなとき使うんですか」 「そりゃ、いろいろね。良薬は口に苦し、というような言葉を本気で信じている人なんかに、ね」 「……料理なんかには?」 「さあ、どうかしら」  食品に人工香料や甘味料が使われている。人体に無害であれば、隠し味として利用されているかもしれない。 「その……PTCは簡単に誰の手にも入るんですか」 「……あなた欲しいの」 「いや……」 「まだ、幽霊の話を気にしているのね。案外臆病なのね」 「いや、僕は幽霊なんか恐くない」 「もう、だったら、安静にしていられるわね」  花住が部屋から出て行くと、進介はすぐラジオのスイッチを入れた。しばらくすると、海方の間の抜けたような鼻唄が聞こえてきた。 「海方さん、聞こえますか」  と、進介が小声で、時計のマイクに言った。 「おお、小湊君か。なかなか奇であったろうがな」 「海方さんは変なことをする犯人を読んでいるんですか」 「いや、読むも読まないも、とんと曖昧模糊《あいまいもこ》としている。君も見ていただろう」 「ええ。あの水差しのことを聞いていましたから、ずっと注意していました」 「俺もそうだ。犯人は目に見えない幽霊としか考えられまい」 「……海方さん、楽しそうですね」 「そう見えるか」 「ええ。海方さんは芯から探偵が好きなんですね」 「そうなんだ。もっとも、特犯の仕事は血腥《ちなまぐさ》いのが多くって辟易《へきえき》するが、こういうのだったら、いくらでもいい」 「あの薬はPTCらしいと看護婦が言っていましたね」 「うん……昔どこかで習ったような気がするんだ。メンデルの遺伝だったか」 「今、看護婦から聞いたんですが、ただ苦い薬だと言っていました。料理に使うんじゃないでしょうか」 「ふむ……料理に、な」 「これが、もしPTCなどでなく毒薬だとしたら、楽の言うように精神科は皆殺しでしたね」 「おい、物騒なことを言うな」 「何者かが、PTCを盛ったのはこれで三度目ですね」 「そう、三度目。皆、同じ味だった。最初は俺で、二度目の標的は百田総裁に違いなく、三度目は早崎珊瑚だ」 「それで、気になったんですが、三つの出来事のうち、一番はっきりとした標的は総裁だけですね。あの魔法瓶の水を飲むのは総裁ですから」 「なるほど……それにも気付かなかった。ばかの真似をしていると本当のばかになるという言葉は本当だの。確かにそうだ。今のところ、早崎桃子の言った通り、グラスの一つに仕掛けたとすると、それを取るのは珊瑚に限ったことじゃない。双橋哲夫がもう少し遅く食堂に来たとしたら、そのグラスを手にした場合だってある」 「いつも食堂に来るのは、大体、決まった順なのですか」 「いや……違うな。ばらばらだ。俺などは口腹《こうふく》の欲が強い質《たち》だからいつも早目だが、他の人間は違う」 「とすると、犯人は無差別にPTCを飲ませている、とも考えられますね」 「そうだ。無差別に、だ」 「もしかして、四度目には本物の毒が使われる、というんじゃないでしょうか。今までのは予行練習で」 「……冗談じゃねえ。そうだったら、俺はここから逃げる。おい、食堂で鈴木一号爺さんと話をしていたな。何か訊き出したのか」 「ええ。戦時中、この病院の地下に防空壕を作ったそうです」 「うん。あのころは個人の家でも防空壕を掘った」 「その防空壕を研究室にして、先代の院長は軍からの命令で毒物を開発していたそうです」 「……化学兵器としての毒だな」 「なんでもベットウトカゲという蜥蜴からリザドトキシンという毒物を発見したそうです」 「ふうん……どんな毒だ」 「鈴木さんの言うには、絶対秘密の研究で、毒物を研究していたことは確かですが、それ以上のことは判らないそうです」 「鈴木爺さんはなぜそんな秘密を知っているんだ」 「前の院長から、ベットウトカゲの捕獲を頼まれた、と言うんですがね」 「なるほどな」 「もし、その毒物がまだ残っていて、犯人が使うとなると、一大事です」 「む……そりゃあ、悪夢だの」 「そんなのは、多分、未知の毒でしょうから、使われたとすると立証が難しくなると思います」 「おまけに、無味無臭、致死量がわずかだとなると……嫌な気分になって来たぞ」 「とすると、探偵ごっこでは済まなくなります」 「おい、それは……真逆《まさか》、そんなことはなかろう」 「だといいんですけど。海方さん、最初は妙な事件をこね上げて、僕を呼び寄せたんでしょう」 「む、そうだ」 「それが、本物の怪事件を引き起こしているんじゃないですか」 「ばかを言え。俺にそんな能力があるなら、とうに教祖様にでもなっているわ」 「このまま、様子を見ているだけで、いいもんでしょうかね」 「待てよ……その、地下の防空壕というのが今どうなっているか気になるな。それに、一度も入院患者が出て来たことのねえ二○二号室も気になるの」  海方はそして、独り言のように言った。 「小湊君。最近、君の錠前の開け方は、俺などよりずっと旨くなった」  進介はいつも感心するのだが、無精《ぶしよう》な人間というのは、他人を使うのがおそろしく上手だ。  六章 イエロージャケット  十時。  進介はベッドを抜けると黒いシャツに着換え、皮のケースをパンツのベルトに挟んだ。ケースの中には、ペンライト、ナイフ、錠前を開けるピンなどの七つ道具が入っている。ハーフミットにゴム底のスニーカー。身支度はそれだけだった。  進介は音のしないように部屋のドアを細く開け、外の廊下を窺《うかが》った。あたりは静まり返って、前方のナースステーションが光の池になっている。  進介が外に出ようとしたとき、前方でドアが動くのが見えた。進介の部屋と同じ側で、海方の部屋の見当だった。進介は急いでドアを細くした。部屋から出て来たのは、海方とはまるで体形の違う人影だった。人影はナースステーションを背にして進介の方へ歩いて来る。背を丸めて小刻みな足取りだった。進介はドアを閉めて耳を澄ませた。すぐ、近くでドアが開き、閉まる音がした。隣は和多本秋代の部屋だった。秋代がなぜ海方のところに行ったのか判らないまま、進介は十分だけ待った。  その間、物音はなかった。  再びドアを開け、進介は前よりはなお慎重に人のいないのを確かめてから廊下に出た。  秋代の部屋の前に寄ってみる。ドアはひっそりと閉められたままで、中も静まり返っている。  その向こう隣が海方の部屋だった。近寄ると鼾《いびき》が聞こえてくる。進介は素早く海方の部屋に入った。  男の進介でも顔をそむけたくなるような寝相だった。海方はベッドの上に仰向《あおむ》けにひっくり返り、パジャマをはだけて、傍若無人に臍《へそ》のないつるりとした腹をむき出しにして、片目を半分開けたまま大鼾をかいていた。煙草とアルコールの臭いがする。見ると、ナイトテーブルの読書ランプが点《つ》け放され、ポケットボトルの栓が開けられたままになっている。革張りの半月形のボトルで、海方がいつもポケットに入れて持ち歩いている品だ。ずれた枕の下から紙幣を挟んだ預金通帳が顔を出している。それを見るとさっきのはただの盗人ではないようだ。  進介はボトルを手に持った。口を鼻に近付けるとウイスキーのいい香りがする。残りはわずからしいが、少し前、何者かがこの部屋から出て来たのを見ているので、万一ということも考えられる。進介は流し台でボトルの中を空け、よくすすいでから栓をしてナイトテーブルに戻した。  改めて海方の寝顔を見ると、相変わらずぶざまだったが、それでも、酔っ払いが一生懸命酔い乱れているのと同じように、ただ一途《いちず》、睡眠を貪《むさぼ》っている様子が判るから、起こす気にはなれない。進介はもう一度部屋を見廻し、特に変わった点のないのを確かめて外に出た。  ナースステーションでは、見識らぬ若い看護婦が一人、本を読んでいた。  進介は窓越しに見られないように廊下を這ってナースステーションを過ぎ、階段を降りてロビーへ出た。常夜灯だけのロビーは暗く、人のいない建物は古さだけが目立っている。進介がエレベーターの横の階段を降りようとすると、ごとりという鈍い音がした。自動販売機が並んでいる方向だった。  進介は傍にあった柱の陰に身を寄せる。ちょうど機械の後ろ手だった。そのあたりは機械の光で床が薄赤く見える。すぐ、機械の前を離れた人影が現れた。暗い中でも長い髪の特徴が判る。早崎桃子だった。桃子は白い長方形の箱を持って、階段の方へ歩を進めている。よく見ると、手にしているのは牛乳のパックだった。今のは販売機がパックを転がし出した音なのだ。桃子はそのまま階段を登っていく。  進介はその後姿がすぐ頭から消えなかった。桃子は後姿にも言葉を持っている女性だった。  地下に続く階段は、幅が半分ほど狭くなっている。進介は注意深く階段を降りていった。階段が尽きると、横はエレベーターで、正面の壁に古びたパネルが張ってあり、機械室、処置室、霊安室の方向が示されている。霊安室はエレベーターの斜め前だった。  古い建物のためか、地階はいかにも地下らしく、一際《ひときわ》暗く冷え冷えと静まり返っている。  霊安室の前は、車が通れるほどの広さで勾配を作り、病院の駐車場に出る地下道だが、そこはシャッターで閉ざされている。霊安室の戸は幅の広いスチールの引き戸だった。見るからに寒寒しく生者を寄せ付けない感じだが、手を掛けると動く気配がした。戸は鈍い音を廊下に反響させて開いた。  進介は霊安室の中に入って戸を閉めると、光も一緒に断ち切られた。閉ざされた暗闇に、いがらっぽい線香の匂いが身体を包み込む。進介はその中で五分間待つつもりだったが、実際は一分も堪えられなかった。  霊安室に動く気配がないのを確かめて、進介はペンライトの光を床に落とした。白菊らしい、黄色く乾燥した花弁が丸い光の中に落ちている。ライトを動かすと、正面に簡素な祭壇が見えた。白木の壇に、花立て、香炉、燃え残りの蝋燭《ろうそく》を立てた燭台などが寒寒と置かれている。  進介は壁を伝って霊安室を一巡してみた。出入口の他にドアが一つあった。祭壇の左側だった。ドアのあちこちは錆び付いてノブは軋《きし》んでいたが、廻すと鍵の掛かっているのが判った。進介は鍵穴を見て、比較的簡単なシリンダー錠だと判断した。  シリンダー錠の構造は本体の中に中筒が埋め込まれ、この中筒を回転させるとフックが外《はず》れて解錠されるのである。だが、本体と円筒の間にはいくつかのピンがまたがっていて、円筒が回転しないように固定している。このピンの位置を特定の位置に移動させると、中筒が回転する。キーに刻まれている山はこのピンを特定の位置に動かすためのものだ。  だから、錠を解錠するには、キーがなくとも、ピンを移動させる物があればいいわけだ。進介が海方から教えてもらった方法だと、特殊な形をした二本の針金を使う。ただし、この針金で錠内にあるピンを探り、解錠する位置に移動させるにはかなりの技術が必要だ。シリンダー錠は安物が開け易く、高級品になると内蔵されているピンの数が多く作られているためそれだけ難かしくなる。  進介が二本の針金を取り出して試してみると最初に判断した通り、ドアの錠は短い時間で外すことができた。  ドアを開けて中に入る。入口の近くは古くなったような医療器械や薬品の箱が置かれていて、そこの広さはよく判らない。線香の匂いにかび臭さが混っている。更に進むと、木製の巌丈な引き戸に突き当たった。  戸の下をライトで照らして見ると、最近、その戸を人が出入りしたらしい跡が見える。コンクリートの床の上に、黄色っぽい土が踏み込まれているのだ。戸の向こうの床は舗装されていない地面らしい。戸はかなり重く、がたつきながら開いた。その向こうには想像した通り坑道のようなトンネルが開けられていた。進介は戦時中を知らないが、ここが防空壕に違いない。  大谷石《おおやいし》を重ねただけの階段を数段降りると、天井は手の届くほど低く、天然の洞窟に近い感じで空間が拡がっている。ライトで天井を照らした進介は、階段の方から電線が這っているのを見付けた。その電線は防空壕の中央附近で、引き千切られでもしたように端が垂れ下がっていた。電線の端にはソケットもなく、電流が通じていそうにもない。  昔、防空壕を人が使っていた形跡は電線の他にもあった。  かなり大きな、部厚な板で作られた机が一隅に押しやられ、そのあたりには毀《こわ》れた椅子や布袋などが重なっていた。机は薄い埃《ほこり》で覆われ、最近、人が触れた様子はない。  少しいるうち、進介は微《かす》かに空気が動いていることに気付いた。防空壕はまだどこかに続いているに違いないと思い、なお壁を辿《たど》っていくと、最初のうち土の窪みに見えたところに、細い割れ目のような口が開き奥の方へ続いているのが判った。人一人がやっと通れるほどで、先へ行くにつれて少しずつ登りになっている。  進介が一歩地下道に足を踏み入れたとき、背後でごとっという音を聞いた。霊安室へ通じる戸の音だった。進介は咄嗟《とつさ》にライトを消し、その場にうずくまった。  かなり無造作に戸が開いて、霊安室を背に人影が現れた。  それを見て、進介はぎょっとした。  人影の頭の部分に二つの目が、青白く光ったからだ。  それは、一瞬で、確かに人の目と断定することはできない。強《し》いて言うなら、人影の人の目の位置に、二つのものが青白く光って見えたのである。次の瞬間、ゆらりと人影が大きく揺れた。人影がライトを防空壕に持ち込んだのだ。それまで、ライトは霊安室にあって、その光の反射で人影を浮き出させていたのだが、ライトが防空壕に移ると、たちまち人影は闇に消えて、石段を降りる足元だけが照らし出された。  その足はためらわずに階段を降りて、机が置いてある壁際に歩を進め、床にライトを置いた。今度は壁の一部が照らし出される。その光の中に両手が入ってきて、土に埋め込まれた四角な石に触れた。二十センチ角ほどの石が外れると、その跡に黒黒とした空洞が現れる。片手がその中に入り、小さな物を取り出す。進介にはそれがきらりと光るガラス瓶に見えた。手がライトから外れたのは、空洞から取り出した物をポケットにでも収めたのだろうか。再び両手が四角な石を持ち、元通りに空洞に戻す。仕事はそれだけだった。  手が床のライトを取り上げ、再び足元だけが照らされると、そのまま石段を昇り、霊安室に出るとすぐ元通りに戸が閉められ、防空壕は闇になった。  進介は壁を伝い、戸に寄って耳を当てた。皮靴の足音が遠ざかり、やがて霊安室のスチールの戸が閉まる音が聞こえた。しばらくはそのままの姿勢を続け、音が絶えたままの状態が続くのを確認して、進介はライトをつけさっきの人影が立ち寄った場所に近付き、壁に目を寄せた。  そのつもりで見ても、容易《たやす》く区別が付かないほど、隠し戸棚の作りは巧妙だった。手に触れてはじめて動く石が判った。ちょうど進介の胸の位置で、蓋の役をしている石を外すと、木で仕切られた四角い空間が現れ、その奥に、高さが七、八センチほどの薬瓶が四つ並んでいた。瓶の中にはどれも白い粉のようなものが詰められている。ラベルも同じものだった。  ——壮腎散。  ソウジンサンと読むのだろうか。  進介は一つの瓶を手に取って見た。さらさらとした白い粉だった。ガラスの栓を取って匂いを嗅いでみる。無臭。ほんのわずかを舌にしてみる……わずかな苦味が刺戟される。  海方は無味無臭、わずかな致死量の毒、と言ったが、壮腎散という薬名からすると、そんな物騒な薬ではなさそうだった。しかし、地下の防空壕の中、曰《いわ》くあり気な隠し戸の中に保管されているところをみると、尋常の薬ではなさそうだった。今、この一瓶を持ち出した者は、この薬効を知っているのだろうか。この薬瓶のありかを知っているとすれば、病院の関係者か。  いずれにしろ問題になりそうな薬だった。進介は一つの瓶をポケットに入れ、石の蓋を元に戻した。  思わぬ人物の出現で行動が中断されたが、進介は再び地下道を進んでみることにした。しばらく行くと道は左に迂回していた。そこを曲ると、はっきりと外の風を感じた。そのまま地上へ抜けられそうでなんとなくほっとした気分になったが、その先は急な勾配になるとともに、天井はますます低く、進介は這って進まなければならなかった。そのネックを過ぎたとき、あたりはほんのりと明るくなった。近くに川の音が聞こえてくる。  隘路《あいろ》の外は川に面した洞窟だった。その入口は木の柵で塞《ふさ》がれていたがだいぶ老朽していて手で押すと楽に動き、進介はその間から川端に立った。  その洞窟を振り返って考えると、戦時中は防空壕からの非常用通路として使われていて、敗戦の後、出口は土で塞がれたのだが、取り急いだため充分な工事ではなく、何年か後には填充《てんじゆう》した土石が緩《ゆる》んで、その上部に隙間ができたものらしい。それを見付けた市が子供達が入り込めないように柵を作ったのだ。  川の堤防に立つと空に十八日の月がかかっていた。前方には月に照らされた木木の葉が重なり合い小さな波頭を思わせる。夜目にも林の両側に開発が進められているのが判る。後ろを向くと文字原病院の建物があった。防空壕や狭い地下道を通ったためか、距離感が錯覚を起こしているらしく、病院の建物は思い掛けない近さだった。  建物は南側を進介の方に向けて、わずかに東の側面も見える。つまり、精神科の二階の奇数号の窓と、東端の二つの特別室の窓が進介がいる場所から見渡すことができる。そのうち、いくつかの窓は明るく四角い光を放っている。ほの暗い窓は読書ランプが反射しているのだ。  その窓を見ているうち、二階の一つの明りが気になった。読書ランプの明りだが、人が動く気配がするのだ。建物の東から算《かぞ》えて三室目。海方と進介の部屋の間で、和多本秋代の部屋だった。進介は部屋を出るとき、秋代が海方のところから出て自分の部屋に戻って来たのを目撃している。秋代は何をしているのか、進介はその中を見たい誘惑が起こった。  進介は病院に近付き、そっと鉄の非常階段を昇り二階の踊り場に出た。足を伸ばすとどうにか二○一号室の窓枠に届いた。病院の中に戻って秋代の部屋のドアを開けるより、外から窓越しに覗く方が部屋にいる者に気が付かれにくいという判断だった。幸い、二○一号室は空部屋だし、その隣は進介の部屋だ。  二○一号室の角を曲るときだけ、勇気が要ったが、後は窓に手摺《てす》りがあるので危険は感じなかった。進介は自分の部屋を通り越し、そっと秋代の部屋の窓に半分だけ身体を移した。  カーテンの隙間から部屋の中が見えた。  予想した通り読書ライトが点けられていて、秋代はベッドにはいなかった。秋代は紺色の部屋着で、窓を背にしてスツールに座っている。後ろから顎が動いているのだが、部屋には秋代一人だ。それでも、しきりに何かぶつぶつ言っているのが判る。ラジオを聞きながら返事でもしているのかと思っていると、ふいに秋代が立ち上がった。秋代はドアの方にじっと目を向け、すぐに身を躍らせてベッドの中へ潜り込んだ。まるで、ネズミのような素早さだった。  一呼吸置いて、ドアが開いた。婦長の田中留美子の顔が部屋を覗いた。  ——留美子が病室を見廻りに来たのだ。とすると、自分がベッドにいないのはまずい。  進介は自分の部屋の窓を外から開け、手摺りを跨《また》いで部屋に飛び込むと、そのままベッドに入った。  しばらくすると、ドアが開く音がした。 「寝られているようね」  留美子は静かにそう言い、ドアを閉めた。  じっとしていると、本物の眠気が起こっているのが判った。手足が妙に重くなっている。進介はベッドに起き直り、頬を叩いた。  十時半。部屋を抜け出してから、三十分しか経《た》っていない。  進介は防空壕から持ち出して来た壮腎散をポケットから取り出し、改めて見廻した。  薄暗い廊下には白っぽい靄《もや》がたち籠めていて、細く開けたドアの隙間から、部屋の中へ流れ込むような感じだった。物音は全くない。自分の息が聞こえるほどだ。刺戟のないまま、眠気だけがむくむくと育っているのが判る。  そのうち、進介の耳はごく微かな足音を捉えた。床に当る固い皮の音だった。  進介は鍵のフックが掛からない程度にドアを開け、息を殺して聞き耳を立てた。  足音は時計の音のような正確さでドアの向こうを横切っていく。その足音が止まったのは、二○二号室の前あたりだった。やがて、鍵穴にキーが差し込まれる音、解錠される金属的な低い響き、そしてドアが開け閉めされて、フックが掛かる音が続けて聞こえてきた。  進介は音のしないように自分の部屋のドアを開け、ナースステーションの方を窺《うかが》った。ステーションは暗さに馴れた目に眩《まぶ》しいほど明るい。進介はステーションに人影のないのを確かめ、部屋の外に出た。  二○二号室のドアの下の隙間から、中の光が廊下に這い出していた。少し前までにはなかった光景だった。進介はそっとドアの前に寄った。中から微かな物音が聞こえる。ただし、何をしているのかは判らない。  場所がら、もし見付かったとしても、どうにでも言い訳はできる。進介は大胆に振舞うことにして、ドアのノブに手を掛けた。内側から鍵が掛けられていないのを確かめ、静かにドアを開けると、すぐ、空のベッドが見えた。付き添いのための予備ベッドらしいが、クリーム色のスクリーンで仕切られたその一角は、割にゆったりとした広さで、洗面台やガラス棚、冷蔵庫が清潔に輝いている。緊張して刺戟に敏感になっているのだろう。嗅覚は部屋にある微かな油性の香料らしい匂いを選《よ》り分けた。  進介は思い切ってスクリーンの横から奥を覗いてみた。  看護婦長、留美子の後姿が見える。留美子は白いテーブルクロスを掛けた食卓の上の、食器を片付けているところだった。その向こうに花柄のカーテンが引かれ、ベッドの半分が見えているが、寝ている人の姿は判らない。ただ、二○二号室の患者の生活を想像させる物には事欠かない。  窓際に真新しいオレンジ色の百合が花瓶に溢れている。その花に向かう位置に、木製のイーゼルが置いてあった。斜めからだが、イーゼルに立て掛けられたカンバスが見える。画面は余白を残していない。一面に窓際の百合と同色の絵具で、実物のモデルより数倍の面積でびっしりと埋め尽されているのだが、その中央に青黒いものが、それは意識した構図ではなく、不意の汚れかあるいは焼け焦げといった感じで描かれている。その形も四足を放射状に伸ばした動物のように無気味で、花の色と青黒い取り合わせが、邪悪と言えそうなほど毒毒しかった。疑いもなく、食堂に新しく掛けられた絵と同一人物の筆致だ。  イーゼルの前には木のスツール、ワゴンの上には絵具やパレット、筆立て、油壺などが載っている。部屋に入ったときに感じた油性の香料は、油絵の匂いだったのだ。 「百合子さん、今日はとても工合が良さそうね」  と、留美子はベッドの枕元に声を掛けた。 「もう近いうち、退院だそうですよ。さっき、院長先生がそうおっしゃっていました。本当によく辛棒を——」  ふいに、留美子は言葉を切った。部屋が静止画面になった。留美子の耳が何かを聞き取った、と言っている。 「そこにいるのは、誰?」  不意に、留美子は鋭い声を飛ばした。  進介は身構えていたので、咄嗟にカーテンから身を退くことができた。そのまま、半開きのドアから廊下に出ようとしたとき、手荒にカーテンを引く音が聞こえた。進介はその音の中でドアを閉め、自分の部屋に滑り込み、ベッドの中に潜り込んだ。  進介がそのまま息を殺していると、音もなくドアが開いた。ノブの音を立てない慎重さだが、行動は素早かった。人影はドアを元通りに閉めると、そのまま進介のベッドの下に転がり込んできた。 「しっ……」  ベッドの下に入る前、人影はそう言った。闖入者《ちんにゆうしや》を咎《とが》める閑もない。再びドアが開いた。今度の人影は遠慮なくノブの音をさせた。 「小湊さん……」  留美子の声だった。  進介が黙っていると、留美子は部屋の電灯をつけた。進介は一つ寝返りを打って見せた。 「この部屋に入ったように見えたけれど」  毛布の間からそっと見ていると、留美子は吊り上がった目で部屋を見廻していたが、諦めたように電灯を消して廊下に出ていった。進介はそっとベッドを抜け出し、ドアに耳を寄せた。二○二号室の方で、今度はドアに施錠する音が聞こえた。 「そんなところにいると、息が詰まってしまうぜ」  進介はベッドの下に声を掛けた。 「婦長は行ってしまったよ」 「約束して下さい。手荒な真似はしない、と」  意外と気の弱そうな声が聞こえた。 「それは、そっちの出方一つだな」 「思った通り、話の判る人だ」  ベッドの下からもぞもぞと黒いタートルネックのセーターを着た男が出て来た。何度か顔を合わせている、力松智彦だった。 「これを夢遊病というのかね」  と、進介が訊いた。力松はばつが悪そうに笑った。今まで見た力松と違い、無気力な感じがすっかりと消えている。 「ええ、一応はね。でも、夢遊病ですと言っても、信じちゃもらえないね。人に追い掛けられて、他人の部屋に飛び込む夢遊病なんかいないからな」 「……仮病だったんだな」 「ええ。あんたと同じでね」 「……僕が仮病だって?」  進介がにじり寄ろうとすると、力松は慌てて手を振った。 「そんな怖い顔をしないで下さいよ。最初から判っていたんですから」 「最初から?」 「そう。あんたは気付かなかったか知らないけど、今日、あんたが鈴木老人と話しているのを傍で聞いていたんですよ。そうしたら、あの爺さん、自分の年を教えるのに、天空先生より五つ年上だと言っても、あんたはぴんと来なかった。その直前、あんたが露出症の楽さんを相手に、狂信者のようなことを言っていたばかりだから、これはおかしい。狂信者なら他の記憶がぼんやりするのはいいが、鈴木天空の名を度忘れするはずがない。これはちと、わけがあるなと思っていたら、案の定、二○二号室に忍び込んだりしたものね」 「……見ていたのか」 「ええ。あんたは相当大胆だ。僕なんかはそうしたいと思っても出来る仕事じゃない。プロの芸当だ」 「おかしいな。廊下には誰もいなかったはずだが」 「窓の外から見ていたんですよ」 「窓の外?」 「ええ。僕には堂堂とドアから忍び込む勇気なんかない。それで、病院の外に出て、二階によじ登って、窓のカーテンの隙間から二○二号を覗いていた。そうしたら、部屋の奥から君の顔がこっちを見ている」 「……窓の外を見ていたわけじゃない」 「そう。外は暗いしね。でも、突然、予想もしないあんたの顔がこっちを見ているから、はっとしますよ。そのとき、身体のバランスが崩れてつい、ガラス窓に音を立ててしまった」 「じゃ、婦長はその音で窓の外から誰かが部屋を覗いている、と思って声を上げたんだ」 「ええ。すると、あんたは自分が感付かれたと思ったわけだ」 「……顔を見られた?」 「いえ、大丈夫。婦長が窓を開ける前に、僕は地面に飛び降りましたからね」 「非常口から二階へ戻ったのかね」 「そう。自分の部屋まで戻る時間がなかった。二○二号室のドアが開きそうだったから」  改めて力松を見ると、服は黒、音のしない柔かそうなスニーカーを穿いている。周到な計画を立てて行動を起こしたのが判る。進介は力松に興味を持った。 「まあ、掛けたらどうです」  進介は力松をスツールに座らせ、自分はベッドの端に腰を下ろした。力松はこれまでの緊張が一度に解けたような表情になった。 「この際、お互いにうまくもない芝居は止めましょうや。小湊さんも美人の奥さんと別別に寝起きをするようになるんだから、余程の理由があって入院したんでしょうが、それは訊きません」 「僕もその方がいいと思う」 「しかし……真逆《まさか》、同じ目的なんかじゃないんでしょうね」 「同じ目的だとすると」 「これは、少少、困る。僕は争いごとが嫌いでね」 「それは……どちらかが言わなければ判らない」  力松は困ったように腕を組んでいたが、すぐ思い切ったように腕組を解いた。 「じゃあ、僕がここに入院した目的を言ってしまいましょう。他の人には、絶対秘密ですよ」 「約束しよう」 「実は……絵、なんですがね」 「絵?」 「と言うところをみると、小湊さんとは矢張り違う目的だった」  力松はほっとしたように、改めて進介に訊いた。 「さっき、小湊さんが二○二号室に入ったとき、あなたの位置からカンバスに立てられてあった絵が見えませんでしたか」 「斜めからだけれど、見えたことは見えた」  力松は身体を乗り出した。 「どんな絵でしたか」 「画面一杯にオレンジ色の百合が描かれていましたよ」 「……百合だけですか。他には?」 「遠くからじゃよく見えなかったけれど、絵の中央に、青黒い色が塗られていた」 「それ、蜥蜴《とかげ》じゃありませんでしたか」 「四本の足を伸ばした動物のようだった」 「そうですか。じゃ、間違いなさそうです。それはきっと、青蜥蜴。僕はずっとその絵を追っていたんです」  部屋の明りは小暗い常夜灯一つだが、力松の目が輝きはじめたのが判る。 「僕の名は力松智彦。実は世田谷で力松美術商会という店を持っている絵画商なんです」  と、力松は身分を明かした。 「店は小さいけれど、親父の代からこの道でね。僕は長いこと新宿西口のせきれい堂で修業をして来た。これでも、絵を見る目なら人に負けるとは思わない」  進介はそう言う力松に関心は持っても、警戒心を解いたわけではない。その心を見抜いたように力松は言葉を足した。 「と、言って、僕が正直に打ち明けて、さてあなたはと訊くような下心なんかないから安心してくださいよ。とにかく、ここに集まっているのは妙な人物ばかりでしょう。まともな医者や看護婦には絶えず仮病を使っていなければならないから気が休まらない。とにかく、久し振りに普通の会話がしたいんですよ。聞き手になってくれませんか」 「いいですよ。話してごらんなさい」 「実は僕のところに、三枚の絵が持ち込まれたのが最初なんです。十号の油絵で、人形に果物に花。年鑑にも載ってない素人の作品でした。それを持って来た人は、こういう絵が私の家から出て来たのだが、自分には絵の趣味もなく、好きになれそうもない絵で、でも、実に丹念に描いてある、それを思うと捨てる気にもなれず、価格のことは言わないから引き取ってくれないか、とこう持ち掛けました」 「…………」 「僕は何気なくその三枚を手にしたんですが、一見してこれは只の絵ではない、と思いましたね。絵の持主が好きになれないと言うのも道理で、かなり病的なんです。最初の人形の絵は写真を見るような克明な描写で、よく見ると人形の足元に一匹の小さな青い蜥蜴が這っているんです。果物の絵になると、青蜥蜴はかなり大きさを増して、バナナの間からじっと絵を見ている者を見返しているよう。花の絵になるともう、蜥蜴のモチーフは画面全体に拡がっていました。つまり、花全体が青蜥蜴の顔にも見えるという、実に不思議な絵だったんです。僕はこの三枚の絵を見て、すぐ、ルイス ウイリアム ウエインを連想しました」 「……外国の画家なんですか」 「ええ。十九世紀、イギリスのイラストレーターで、絵が有名になったのは、ウエインが精神分裂を発病してからです。彼のモチーフは猫なんですがね。それが病気の進行とともに奇怪に変容していく。と言って、只の病人の絵だとしたら、精神医のモデルとして注目を引く程度でしょうが、ウエインの絵は芸術的なイメージを刺戟するんです。ネオモルフィズムを示したとさえ言われている。僕が見た三枚の絵は、ウエインのように、いやそれ以上に素晴らしいものでした」 「正常の画家には描けないような絵なんですね」 「そう。病気によって自己が溶解していく。そのありさまを視覚的に表現する、などというのは普通の人では思いも寄らない。僕はその三枚を預かって、識り合いの美術愛好家のところへ持って行ったんです。絵を見た愛好家の感激は大変なもので、君、これは極めて重大な発見だ。この画家の全作品が揃えば、世界の絵画の流れが変わるかもしれない。小湊さん、判りますか。一人の人の狂気が歴史を変えてしまう。それなんです」  進介は力松の熱っぽい言葉に、思わずうなずいた。もっとも力松の話の全てを信じてしまう気持はない。 「僕のところに絵を持ち込んできたのは常盤《ときわ》ツナというお婆さんなんですが、どういう経路で絵がその家に辿り着いたのかよく訊いてみると、ツナには一人の妹がいて、最近、心臓病で急死した後、その遺品を整理していたらその三枚が出て来た、と言うんですね。ただし、妹という人は絵の趣味はないし、絵画を描いているような識り合いもない。夫には早く先立たれて子供もいない。長いこと病院の付き添い婦をしていた」 「そこから文字原病院が割り出されたわけですか」 「まあ、そう言ってしまえば簡単ですがね。いろいろ廻り道をしたり大変だったんですよ。三枚の絵具の様子を見ると、ごく最近描かれたものだと判りますから、その画家を見付け出すのは不可能ではないはずだ。それだけが唯一の頼みでした」  力松は部厚な唇を舌でしめして続ける。 「とにかく、文字原病院に精神科があると知って、その患者の一人が描いた絵に違いないと判断したわけですが、こりゃ、難しくなったな、と思いました。何しろ精神科の患者ですからね」 「……そりゃ、少し古過ぎるんじゃないんですか。今じゃ精神病は伝染病みたいに忌《い》み嫌われる病気じゃなくなったでしょう。正常の人でも条件が揃えば病気が生じる。だから、この病院でも昔のように患者を隔離したり監禁したりしないで、日常の生活に近い環境で治療が行なわれているんじゃないですか」 「なるほど。さすが、この病院の内情をよく調べて来たね。確かに昔と違って医学は進んでいる。患者の人格を尊重しなければ病気はよくならないぐらいのことも今じゃ一般人の常識だからね。だが、立前と本音はやはり違う。そこが人の複雑で面白いところさ。人種差別、男女同権、根は皆同じところから出ている。そうでしょう」 「…………」 「その患者に家族がいたとしたら、患者の病名を世間に隠したくなるのは人情です。そこへ僕みたいのが出て来て、その人の絵は常人を超えているなどと言ってご覧なさい。たちまちそっぽを向かれてしまいますよ」 「それで、病気と言って、この病院に入院して、その絵の作者を探すことになったんですね」 「ええ。その絵を見た美術愛好家の勧めでね。その人はとても顔の広い人で、有名な医者も何人か識り合いで、その一人の紹介で僕がここに来たんです」  それに応じた力松もよくよくその絵に執着を持っているのだ。 「まあ、物忘れ、意識障害、無気力、いろいろな症候を言いましてね。その一つに夢に誘われて、ふらふらと歩き出し、目覚めると一切その記憶がなくなっている、という夢中遊行症。いわゆる夢遊病。それを利用して病院中を探っていたわけです。ここだけの話だが、医者は欺し易いね」  進介は苦笑《にがわら》いした。 「あまり医者を欺す者はいないからな」 「それで、色色な場所を歩き廻ったわけです。なるほど、ここにはユニークな人達が多い。世界銀行の総裁、名探偵、大数学者。一通り仲良くして観察してみると、皆、勝手に生きたいように生きている。つくづく考えさせられますよね。世の中で本当に幸せに生活しているのは、本当はあの人達なんじゃないか、とね」 「問題の画家は見付かったんですか」 「それなんです。僕は入院してから、大方の入院患者と話しました。ところが、どうもそんな絵を描いているような人物が浮んで来ない。特に探偵などは、本職が日本画家だと知ってかなり仲良くなったんですが、あれは結局、ただの食い意地の張った痴呆症《ちほうしよう》でね。とても創造的な頭脳など持っているような男じゃない」 「まるで、糠味噌《ぬかみそ》になった海亀ですね」 「なるほど、あんたも観察してるんだね。そう。あの探偵はとにかく強い者に諂《へつら》うのが得意なんだね。探偵でも日本画家でもいいが、サラリーマンだけにはしたくない男だ。部下がひどい目に遭《あ》う」  海方の評価は誰が見ても似たり寄ったりのようだ。 「そんなわけで、はたしてこの病院に問題の画家がいるのか、と思っていたところ、今日になって、見ましたか。食堂に絵が持ち込まれたでしょう」 「……綺麗な百合の絵でしたね」 「そうでしょう。一見、何でもないような静物画です。ところが、よく見ると花の陰から蜥蜴がこちらを睨《にら》んでいるんです」 「…………」 「僕は常盤ツナが持って来た三点の絵を見ているからすぐそれが判ったんです。あの絵を描いたのは、僕が探していた画家だったんですよ」  力松は熱っぽく言った。 「食堂の絵をよく見ると、まだ青蜥蜴が前面に現れていない。ということは、画家の病歴から言うと、かなり初期の段階と思うんですが、こういう絵が人前に出たとなると愚図愚図していられない。この絵に興味を持って欲しがる者が出て来ます」 「……そうでしょうかね」 「勿論、理屈ではあんたの言う通り、そこまであの絵を見る人はそうざらにいやしません。でも、愛好家の心理は別。気に入った品物を見付けてたまたま現金の持ち合わせがない。金を取りに行っている間、他人に買われてしまわないか、ひどく心配したような経験がありませんか」 「……それなら判りますね」 「そうでしょう。さっきも、あんたが僕と同じ目的で入院したんじゃないか、気になった気持と同じなんです。こういう絵は散逸してしまっては意味がなくなります。食堂の絵を見てから、緩《ゆつく》りしている気持になれず、皆が寝静まった頃を見計らって、自分の部屋を抜け出した、というわけなんです」 「二○二号室に目を付けたのは、心当たりでもあって?」 「いや、確信はなかった。ただ、消去法です。今まで見たところ、精神科の病棟には絵を描いているような者は一人もいない。とすると、入院していながら人前に姿を見せない二○二号室の患者が気になる理屈でしょう」 「それで?」 「あんたも見た通り。外から覗いて見るとびっくり。あの中はまるでアトリエですね」 「窓の外からはそんな風に見えた?」 「そう……アトリエは少し大袈裟《おおげさ》だったかな。花があって絵があって鳥籠と人形と花柄のカーテン。そう、お嬢様の部屋って感じでした。それはともかく、思い掛けないところで問題の絵を見付けました。これで、肩の荷が下りました」 「これからが大変なんじゃないか。その絵を手に入れなければならない」 「いや、絵を盗み出せ、と言うなら別ですが、まさか、そんな乱暴な計画を立ててはいません。後は他の人の仕事になります。入院患者が急に絵の交渉なんかはじめたらおかしいですからね。僕の仕事は問題の絵を見付けるだけ」 「……一体、二○二号室の患者はどんな女性なのかな」 「女性? 部屋を見たとき、おや、と思ったんだが、それは確かなんですか」 「そう。その患者が窓際に立っているのを見た人がいる。あの、鈴木一号爺さん」 「なるほどね……年齢はいくつぐらいでしょう」 「鈴木さんは中年の女性、とだけ言っていたが」 「……部屋の名札も出ていない」 「さっき、婦長が百合子さんと呼び掛けているのが聞こえましたがね」 「矢張りね」  力松は得心のいったような顔をした。 「百合子を——知っているんですか」 「ああ、入院する前、文字原病院についても少し調べたんです。文字原院長には百合子という奥さんがいます。その奥さんの旧姓——実家の姓を、美島《みしま》という」  進介は複雑な思いがした。院長の文字原弘一には妻がいて当然だが、二○二号室の患者になっているとは想像もしなかった。 「その美島百合子は、発病してから長いんですか」  と、進介は力松に訊いた。 「そう。四年以上は経《た》っているはずだ。百合子はここの看護婦長でね。院長と一緒に働いていたんです。だが、発病してからは二○二号室に閉じ籠《こも》り、代わりに今の田中留美子が看護婦長の仕事をするようになった」 「……病室に名を出さないのは、矢張り院長の体面ですかね」 「そう思う。精神科の病院から精神病者が出たんじゃ、矢張り困るだろう」  患者が身内だとすると、特別な待遇を受けている意味が判る。 「さっき、婦長が百合子に、もうすぐ退院ですと言っていた。だいぶ良くなっているんじゃないですか」 「退院? そりゃ、おかしいな」 「……しかし、確かに退院と聞こえた」 「病気のことは判らない。専門じゃないから。でも、美島百合子が描いた絵を見る限り、退院は信じられないな。百合の花の間に、無気味な青蜥蜴が一匹入り込んで来る。それが、しばらくすると、主題の百合と同じ量にもなっていく。それまではいい。百合と蜥蜴の区別がつくうちはね。でも、百合に蜥蜴の表情が現れ、蜥蜴は限りなく百合に近付いて、その二つが混沌として入り混り、この世にない奇怪な姿になるのは、心の分裂が進み、自己が融解している証拠だと思うんですがね」 「……そこまでいくと、治癒は?」 「まず、絶望でしょう。ですから、婦長が退院するという意味は、死を言っているんじゃないんですか」 「……安楽死?」 「大きな声じゃ言えませんがね。病院だから毒はお手のものでしょう」  進介は防空壕から持ち出した壮腎散のことを思い出した。進介が目撃した人物は、病院の内部をよく知っている院長とするのが一番だ。壮腎散がもし毒とすると、院長は百合子にそれを与える考えなのかもしれない。しかも、それが戦時中に作り出されたまま、人知れず保存されてきた未知の毒だとすると、それによって死亡した屍体からの検出は困難に違いない。 「毒というと、こっちも気を付けなければいけない」  と、力松が難しい顔をした。 「さっきも、変な物を飲まされかかったんです」 「外で、でしょう。見ていました。魔法瓶の水を廻し飲みしていましたね」 「そう、それが妙な話でね。あの探偵が持って来た水が、ひどく苦かったんだ」 「探偵が何か入れて来て?」 「そうじゃないと言うから妙なんだね。探偵は食堂で氷水を魔法瓶に入れてもらい、そのまま蓋も開けずに持って来たそうだ。それが、いつの間にか苦い水に変わっていた」 「……あの探偵のことだから、何をしたか判らない」 「とは思えないんだ。というのが、探偵がわざわざ総裁の機嫌を損《そこ》なうような真似をするのがおかしい」 「昨夕、あんたが食堂を出て行ってからも、一騒動あったんですよ」 「……ほう。今度は誰が?」 「早崎珊瑚。あの子のコップに、苦い薬を入れた者がいる。しかも、誰にも見えない方法で」  そのとき、ドアがノックされた。  力松は急いで進介のベッドの下に潜り込んだ。進介が寝た振りをしていると、ノックは執拗に続く。 「出て、早く追っ払って下さいよ」  ベッドの下で力松が言った。  進介がドアを開けると、サラリーマン風の男がアタッシェケースを下げて立っていた。 「あなたは今、大変お幸せのように見えますね」  前髪を庇《ひさし》のように長く突き出している。両眼がひどく接近しているので、気味の悪いほど視線が強い。さっき食堂で双橋と呼ばれていた男だ。 「ご家族の皆さまもお元気ですか」  進介は腹が立った。 「夜中に起こされて、僕は幸せかね」 「そうでしょう。いや、お宅の間取りが気になりました。地価狂騰の折、家の方位を考えずに家を建てる人が多い。しかし、これは重大なことでして、家相は幸せの基礎、これが悪いと家族に次次と災難を生じ病気に見舞われます」 「一体、何を言いたいのかね」 「ですから、この近くに建築中のマンションは、さる高名な先生の方位学に基いて設計されたもので、この家にお住いになれば、福徳開運、夫婦円満、合格必勝、交通安全……」 「そのマンションを買えと言うのか」 「はい。現在、申込者が殺到しております。でも、私共といたしましては、すでに福徳を持っている方にはなるべく遠慮願いたい。屋上屋《おくじようおく》を重ねると申しまして、現在、お困りの方にこそ、幸せをつかんでいただきたく……」 「だめだ。そんな金を持ってはいない」 「だからこそお勧めしているのですよ。たとえどんな借金をなさっても、このマンションに入居なされば、借金など苦もなく済《な》してしまいます」 「いらないと言ったらいらない」 「でもありましょうが、一度モデルハウスなどご覧下さい。後日の参考になると思います」 「大体、ここをどこだと思う。それに、この夜中、セールスに歩くなんて非常識じゃないか」  男はそう言われてあたりを見廻した。それから腕時計を見て、少し考え込んでいたが、ふいに呆《ぼ》けたような顔になって何も言わずドアの前を去って行った。 「二○六号室の患者ですよ」  進介がドアを閉めると、ベッドの下から這い出して来た力松が説明した。 「確か、名前は双橋。大手の商社に勤めているんだが、実力が発揮できないのか、次次と後輩に追い抜かれた上、不本意な職場に廻されたらしい。それからは家に帰って家族の人と顔を合わせるのが辛い。終《しま》いには家へ帰ることも怖くなって、ここから通勤するようになったんだ」 「じゃ、今のは無意識に外交をしていたわけだ」 「そう。寝ている間でも会社のことしか頭にない。割の悪い病いだ」  そのとき、ドア越しに話し声が聞こえてきた。 「双橋が早崎さんの部屋へセールスに行ったらしい」  力松はそっとドアを開いて外を見た。  進介もドアの隙間から覗いて見ると、双橋がアタッシェケースを抱えるようにして、二○四号室の前に立っていた。双橋の肩越しに桃子の顔が見えた。桃子は細く開けたドアの隙間から迷惑そうに双橋の顔を見ている。力松は自分の部屋の前で、桃子から見えないように、廊下の壁に身を寄せ、双橋の様子を窺っている。 「この玄関を拝見しましたところ、二黒未申《じこくみしん》の方に当たり、あまりよろしくありません。俗に裏鬼門と申しまして、方災の厄難を受けるとされています。家の間取りなど、気にされたことはございませんか」  声だけ聞いていると、減《め》り張《は》りのきいた耳に快い調子だった。 「方位など一切気にしません」  と、桃子が言った。 「それはいけません。奥様がよろしくても、この家の相はご主人に不幸が重なります。厄難を受けるのはご主人で、ご主人の安危は一家を左右いたします」 「主人は今とても幸せよ。わたしなんかよりね」 「しかし、玄関の方位が違っていれば、もっと成功なさっているはずです」 「しつこい人ね。あなたは一体何なの?」 「はい。私は向井不動産営業部の双橋という者でして、この近くに建設中のマンションをお報《し》らせしたくお顔つなぎに歩いております」  多分、名刺を出そうとしたのだろう。双橋は上衣の内ポケットへ手を入れようとしたのだが、どうしたはずみかアタッシェケースが手から滑り落ちた。ケースはひどい音をたてて蓋が開き中の書類が床の上に散乱した。  桃子は部屋の奥を向いた。 「珊瑚が起きてしまったわ」  それをいい機会と見たようだ。力松は歩いて来て、床に散った書類を掻き集めている双橋の後ろに立った。 「いい加減にして下さいよ。寝られないじゃないか」  双橋は中腰で力松の方を見た。 「営業妨害をする気か」 「安眠妨害だ」  そのとき、桃子を押し退けるように、珊瑚が部屋から廊下に出て来た。 「珊瑚ちゃん、どこへ行くの」 「怖いわ。部屋に誰かいる」 「……誰がいると言うの」 「男の人」 「この子、びっくりして夢でも見たんだわ」 「夢なんかじゃない」  実際、珊瑚は立っているのがやっとという姿だった。怯えてはいるのだが、傍にいる桃子に取りすがるというのでもない。  力松が声を掛けた。 「よしよし、じゃ、小父さんが部屋を調べて来てやろう」  珊瑚はこっくりとうなずいた。だが、桃子はドアの前に立ち塞がったまま動こうとしなかった。 「いけません。ここは女の部屋です」 「しかし……怪しい者がいるという」 「そんな人、いません」  桃子は珊瑚の手を取ろうとする。 「さあ、ベッドに戻りましょう」 「嫌よ」  珊瑚は桃子の手を振り解《ほど》いた。 「わたし、もうあの部屋では寝られない」  そして、珊瑚は何を思ったのか進介の部屋に飛び込んで来た。  咄嗟のことで、進介は自分のベッドに戻ることができなかった。 「お兄さん、助けて」  珊瑚は精一杯の力で進介に抱き付いている。 「どうしたんだね」 「……怖いの」 「よし、僕がいれば大丈夫だ」  進介は珊瑚の背を抱いてやった。パジャマを通して掌に珊瑚の背骨が触れた。身体が小鳥みたいに震えている。 「一体、何が起こったんですか」  留美子の声だった。廊下の騒ぎが大きいので二○二号室から出て来たらしい。それと同時にナースステーションから玲も出て来た。 「営業を妨害されました」  と、双橋が言った。留美子と玲は顔を見合わせて眉を顰《ひそ》める。 「なんでもいいから早く片付けなさい。そこに転がっているのもあなたのでしょう」  二○一号室のドアの前に、ボールペンが落ちている。 「それ、それ。それがないと仕事ができない」  双橋は急いでペンを拾いあげた。  皆の視線が双橋の指先に集まるのを待っていたように、桃子の後ろに一つの影が現れた。医師の笹木だった。桃子は心得たように、自分が皆の視線の楯になるように身体を寄せると、二人の息がぴったりといった感じで笹木が廊下に滑り出た。進介の位置からはその様子が見えたが、珊瑚にだけ気を取られているような振りを装うことにした。  笹木は廊下に出ると、桃子の方を振り向きもせず、普通の足取りで留美子に近付いた。 「あら、先生。どちらにいらっしゃったんですか」  と、玲が聞いた。 「いや……ちょっと院長と話をしていた」  笹木は玲に目を合わせずそう答え、留美子に言った。 「僕が双橋さんを部屋へ連れて行きましょう」  留美子がほっとしたように言う。 「お願いしますわ。先生」 「他の人達は?」  留美子は静かだが力強い声で言った。 「さあ、皆さんは部屋に引き取って下さい。もう、騒がしくなることはありません」  笹木は鞄を持ち直した双橋を連れて行く。力松も部屋に戻った。珊瑚だけが動こうとしなかった。 「さあ、珊瑚ちゃんも部屋に入りましょう」  留美子の言葉に珊瑚は頑《かたくな》に首を振った。 「わたしは嫌」 「言うことをききなさい」  と、桃子が手を差し伸ばした。珊瑚は両手を後ろに廻す。 「あの部屋は怖いから嫌」  桃子がそれでも手を取ろうとするのを玲が仲に入った。玲は珊瑚の前にかがんで目を合わせた。 「何が怖いの?」 「……言えない」 「わたしと二人だけなら言える?」  珊瑚はやっとうなずいた。玲は留美子に言った。 「珊瑚ちゃんはナースステーションのベッドに寝かせましょうか」 「そうね。落着くまでそうした方がいいでしょう」  桃子が気の毒そうに言う。 「本当にご迷惑を掛けますわ」 「珊瑚ちゃん、朝、ミルクを飲むんでしたね」 「ええ。用意はしてあるんです。持って来ます」  桃子が部屋に入った。玲も続いて部屋に入り、すぐ手の付いたコップを持って出て来た。赤い花がプリントされた大ぶりの白いコップだった。 「じゃ、お願いしますわ」  と、後ろから桃子が言った。 「大丈夫。緩《ゆつく》り休ませますからね」  玲は珊瑚の肩に手を当てた。珊瑚は進介の傍を離れ、玲に従った。  留美子は進介の顔を見た。 「小湊さん、眠くないんですか」 「眠くてふらふらです」  と、進介は本当のことを言った。 「じゃ、お休みなさい。今のことは気にしない方がいいわ」 「はあ」  進介は仕方なくドアを閉めた。  留美子の足音が二○二号室へ向かうのが判ったが、再びドアを開ける気はしなかった。今の出来事で、留美子は注意深くなっているだろう。それに、眠気が容赦なく襲って来る。  進介がベッドに入って、どの位経ったか判らない。  人の気配を感じ取ったのは、寝ている間にも、薬に負けまいという意識が強く働いていたためだろう。その人影は進介の部屋に入って来ると、着ていたガウンを脱いで椅子の上に投げ捨てた。白い顔と形の良い二つの乳房がたちまち進介の視野で大きくなった。 「さっきは、ご免なさい」  桃子は進介の耳元でささやいた。 「食堂で根もない言い掛かりを言ってしまって」  進介は物を言う力もなかった。桃子は独り言のように続ける。 「ひどいの。笹木先生にすっかり生ま殺しにされてしまって。あなた、ちゃんと始末して下さいね」  柔らかな身体が進介の横に滑り込んで来た。 「だめだ……」  桃子はくすりと笑った。 「ばかね……ほら、こんなに元気なのに」  七章 |β《ベータ》エンドルフィン  海方が丸裸で鉄の檻の中であぐらをかいている。突き出た腹には臍《へそ》がなくゴム風船みたいだった。  檻の外には特犯の三河課長、和多本秋代、医師の笹木が海方を見守っている。 「さあ、自分の醜《みにく》い姿を見せて、この男に脂汗《あぶらあせ》を流させましょう」  と、秋代が言った。  すぐ、病院の事務員が大きな鏡を持って来て、海方の前に立て掛ける。海方は鏡を見て満足そうににこにこした。 「だめだわ。この男、自分の姿をてんで醜いと思っていないわ」  と、秋代が言った。 「亀さんは自意識が強いから、あの姿が美しく見えるんです」  と、三河課長が説明した。 「漢方医学の本には、大蒜《にんにく》と胡椒《こしよう》を口中に入れると亀は苦しんで脂汗を出す、と書いてあります」  と、笹木が言った。 「じゃ、大蒜と胡椒を持って来させよう」  秋代が言うと、栄養科主任の福岡が銀盆の上に胡椒をまぶした大蒜を山程載せて持って来て檻の中に入れた。海方はそれを見ると嬉しそうに手づかみにしてむしゃむしゃ食べはじめる。 「だめだわ。この男、少しも苦しまない」  と、秋代が言った。 「亀さんは大蒜が好物なんです」  と、三河が言った。 「この男の一番嫌いなものは?」 「そりゃ、何ってたって、奥さんの富士子さんでしょう」  すぐ、富士子が檻の前に近付いて来て、海方を一目見るなり大声を出した。 「あなた、どうしたんです。その浅ましい恰好は。こちらへいらっしゃい。お仕置をします」  それを聞くと、海方の顔は青くなり、檻の隅に小さくなると、全身から脂汗を流しはじめた。それ、というので、鈴木老人が現れて竹篦《たけべら》で海方の脂汗を掻き集める。 「この脂を天日に干して、蟾酥《せんそ》を作るのだ」  と、鈴木が言った。 「蟾酥にはブフォチニンとブフォタリンという毒成分があるのです」  と、笹木が言った。 「これを、誰に飲ませるんですかね」  と、海方が言った。 「今度入院した小湊進介に飲ませてやる。奴は仮病を使って院長を欺した上、僕の桃子を奪った男だ」  実際、進介は毒薬を飲まされたように、一時、意識が暗闇へ吸い込まれていった。そこから這い出そうとして懸命に手足を動かそうとするが、身体はびくともしない。そのうち、やっと声が出た。 「海方さんは?」 「あの人なら、脂を取られて死んでしまったわ」  と、桃子が言った。進介はそれも夢だということが判った。 「そのうち、あなたも死ぬわ」 「……僕が、死ぬんですか」 「ええ。あなたはわたしを殺したわ。これを飲みなさい」  桃子は白いコップに入れた牛乳を差し出した。進介はこれも夢だと思うから、平気で飲み干した。 「死んだわ。体温が下がっていくわ」  と、桃子が言った。 「鐘を鳴らしましょう。お弔《とむら》いの鐘を鳴らしましょう」 「体温を計ります」  進介はその声で目が覚めた。 「体温が下がっているんですか」 「上がっているかもしれませんよ。だから計るんです」  昨夜ナースステーションで本を読んでいた若い看護婦だった。進介は目をぱちぱちさせ、自分の立場をはっきりさせようとした。 「体温が下がっている感じなんですか」  と、看護婦が訊いた。 「いや……うとうとしていたものですから」  進介は体温計を受け取って腋《わき》の下に入れた。  眠りにつく前の記憶が甦《よみがえ》ってくる。  昨夜、病院の防空壕に忍び込んだ後、進介のベッドに早崎桃子が入って来て身体を探り、手を胸に導かれたことは確かだった。ただし、それから後の記憶は夢の中に組み込まれたようにあいまいだった。ところどころに残っている感覚の断片も、集めようとするともどかしさを増すだけだ。  いずれにしても、入院してから奇妙な事柄が多すぎる。進介がそれらを整理しようとしていると、看護婦が言った。 「体温計を見せて下さい」  進介は思考を中止した。看護婦が体温計を読み取ってカルテに書き入れる。それが済むか済まないかだった。婦長の留美子が荒荒しくドアを開いた。 「辻川さん、すぐ、来て」  それだけ言うと、廊下を駆け去って行く。ただならない様子だった。辻川と呼ばれた看護婦はすぐカルテを抱えて部屋を出て行った。  進介はベッドから出て廊下を見た。桃子の部屋のドアが開け放しにされている。中を覗くと誰も見えない。  海方の部屋のドアが開いた。寝呆《ねぼ》けた海方の顔が出て、それでも進介にナースステーションの方を目配せする。進介は海方の傍に寄った。 「何かあったんですか」 「判らん。急変した患者がいるようだ」 「行って見ます」 「俺も行く」  海方が自分から動こうとするのは珍しい。勘のようなものが異変をつかんだようだった。  ナースステーションは相変わらず明るく電気がつけられているが人影は見えない。 「早崎さんの部屋が空になっています」  と、進介が海方に言った。 「ほう……昨日、珊瑚は元気そうだったが」 「確か、昨夜はナースステーションで寝たようです」 「……工合が悪くなったのか」 「いいえ、自分の部屋が怖い、と言い出したんです」  進介は昨夜のいきさつを手短かに話した。海方は目をぎょろりとさせて、 「そんなことがあったのか。ちっとも知らなかった。何せ、昨夜はナイトキャップがほど良く効《き》いて、横になるともう白河夜船《しらかわよふね》だった。朝の鐘で目が覚めるまで何も知らねえ」 「……朝、鐘が鳴ったんですか」 「君もよく寝ていたようだの。鳴ったのは確かだ」  夢の中で、留美子が鐘を鳴らしましょう、と言ったのは覚えていた。とすると、鐘の音を聞いてそんな夢を見たに違いないが、音の方はすぐ記憶から消えてしまったのだ。  海方は進介の傍を離れた。ナースステーションの奥の集中治療室のドアが開いたからだった。医師の笹木と婦長の留美子が難しい顔をして出て来た。続いて白布で覆われたベッドが運び出される。ベッドを押しているのは看護婦の花住玲と辻川だった。最後にすっかり生気を失った、桃子の顔が見えた。  ベッドはそのまま廊下に押し出され、エレベーターの方に向かった。すっぽりと覆われた白布の盛り上がりは小さい。 「珊瑚ちゃん、死んでしまったんですか」  と、進介が言った。  誰も答えようとしない。進介がベッドに近付こうとすると、笹木が足を止めて強い言葉で言った。 「君には関係ない。部屋へ戻りなさい」  取り付く島もない。そうなると海方が図図しい。揉《も》み手《で》をしながら一同の後について歩き出した。 「君は何だね」  と、笹木が言った。 「心の繊細なる画家でございます。袖振り合うも他生《たしよう》の縁。珊瑚ちゃんに線香の一本なりとも」  笹木は何も言わなくなった。笹木が海方を追い返さないのは珊瑚の死を認めたことと同じだ。進介は改めてどきりとした。進介はただ見送るしかなかった。  外傷があるとか、内臓に異状のある病人ではない。病状が悪化したと言っても一夜のうちに死亡するとは考えられない。進介は昨夜珊瑚がナースステーションに行くとき、玲が一緒に持って行ったミルクを入れた花柄のコップが進介の頭の中で大きくなっていった。  気が付くと、珊瑚の部屋の前に立っている。窓のカーテンは閉められたままだ。奥のベッドは毛布もきちんとしている。枕元のナイトテーブルには、小ぶりの書見台が載っていて、本が半開きにされていた。その向こうは窓で、窓枠に花の小鉢や人形が並んでいる。進介は急いで窓に寄り、カーテンを手探った。窓の掛け金はしっかりと下りている。  ドアの近くの補助ベッドは枕も毛布も乱れて、寝ていた人が慌ただしく立ち去ったのが知れる。進介は急に思い付いて冷蔵庫を開けて見た。その中央に牛乳の紙パックがあった。昨夜、進介が見たと同じもので、封は開けられていた。容器の下に小さく6・8という日付が見える。進介はその中身を調べたい誘惑を堪えた。万一、珊瑚の死が殺人だとすると、専門家の手に渡さなければならないからだ。進介は更にあたりを見廻し、特に変わったところのないのを確かめて部屋の外へ出た。  ナースステーションには誰もいない。進介はすぐ二○二号室が気になった。二○二号室の患者が消灯の時刻通りに寝ていれば、もう目を覚ましているはずだ。進介が二○二号室に近付こうとしていたとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。見ると、桃子だった。  桃子は裾の長い光沢のある白いランジェリーの上に、黒のカーディガンを羽織って、しっかりと両手で胸を押えていた。極度に感情を押し殺したような表情で、大きな目で進介を見詰めたまま歩いて来る。進介は動くことができなくなった。桃子を見て、ふしぎと懐しいような気持が起こったが、進介の方もその感情を外には出せない。 「小湊さん、お願い。一緒にいて」  と、桃子が言った。進介は言葉を返そうとしたが喉が引き攣《つ》ったように動かなくなった。  桃子はドアの開いたままの部屋に入り、そのまま着ている物を補助ベッドの上に投げ捨てた。下は白いショーツだけだった。桃子は手早くオレンジ色のワンピースを身にまとい、白いバッグをつかむと外に出て来た。 「一緒に、来て」  進介は言葉に従った。  ナースステーションを過ぎ、階段を下に降りる。 「珊瑚ちゃんは?」  進介はやっと言葉が口に出た。 「あの子、死んだわ」 「……信じられない」 「わたしも、信じられないわ。昨夜のこと、ご存知ね。あの子、ナースステーションに行って、空いていた集中治療室のベッドに寝て、朝、死んでいたんです。もう、冷たくなっていたわ」 「……それまで、誰も気付かなかったんですか」 「ええ。誰も死ぬとは思わないもの。看護婦さんはよく眠っていると思って」 「死因は?」 「まだ、はっきりしないんですけど、笹木先生は急な心臓麻痺だろう、って」  桃子は階下に降りると、公衆電話に歩み寄った。日曜日でロビーにはまだどの職員もいない。 「傍にいて下さいね。わたし、一人じゃ心細くて」 「大丈夫。離れません」  桃子は電話機の前に立ち、バッグを開けて小銭を集めた。 「主人に連絡するの」 「ご主人は?」 「今、岡山の支社に出張中なんです」 「……遠いな」 「仕事が、とても忙しそうなんです」  桃子は手帳を開けて、数の多い番号を廻した。  あからさまに私信を聞くのは気が咎《とが》める。進介が少し離れようとすると、桃子は受話器を耳に当てたまま不安そうに進介を見た。進介はそのところで足を止めた。  桃子の電話は短かかった。珊瑚の死が繰り返され、電話の相手はしきりに質問するらしいのだが、桃子はまだ判らないという言葉を重ねるだけで、また後で連絡すると言って電話を切った。  桃子はあと二通話、同じ電話を掛けた。一通は主人の身内でもう一通は自分の母だった。  電話を終えると,桃子は疲れ果てたように待合室のソファへ身を投げ出した。進介は桃子の横に腰を下ろした。 「電話は、もういいんですか」 「ええ、いいんです」 「……僕が代理でよかったら」 「ありがとう。でも、いいんです。義弟がしっかりした人だから、あの人が手落ちのないようにしてくれます。それに——」  桃子はちょっと言い難そうに進介の顔を見た。 「わたし、主人の方をよく知らないんです。一緒になって、間がないから」 「じゃ、珊瑚ちゃんは?」 「ええ。先妻の子。わたしのために別れた、先妻の子です」  桃子はバッグからハンカチを取り出して顔に当て、しばらく顔を上げなかった。 「お気の毒に——」  進介が声を掛けると、桃子はそれを拒否するように身体を遠退《とおの》けた。 「慰めだったら、いらないわ。わたし、あの子を思って悲しんでいるんじゃないんですから」 「…………」 「わたし、自分の子はいないんですけど、珊瑚のためにはずいぶん尽くしたつもりです。一生懸命に打ち解けようとし努力を続けて来ました。でも、あの子は最期までわたしに心を開いてくれなかった。そればかりでなく、わたしを嫌い、憎み切っていたんです。今、それが悲しくてならない。ね、わたし、自分を泣いていたの。自分中心の女だと思うでしょう」 「いや……あなたはナイーブな人だと思う」 「……もう少し、話を聞いてくれる?」 「ええ。勿論」 「主人と結婚するとき、覚悟は決まっていました。たとえ、自分に子が出来たとしても、珊瑚と差別なく育てよう、って。それまで、わたしのことを心配する人は、全部、結婚には反対でしたものね。あの人に心の定まらない年頃の女の子がいる、というだけで。でも、わたしは主人を思い切るなど、とてもできませんでした。それも、自分のことしか考えられない女だから。自分が可愛くて、自分の恋を全《まつと》うしなければならなかったんです」 「ご主人の前の奥さんは、珊瑚ちゃんを引き取ろうとは言わなかったんですか」 「引き取りたくても、病弱でしたから、自分の手で珊瑚を育てることができなかったんです。珊瑚も母親より主人の方がずっと好きで信頼していたんです」 「そうだったんですか」 「ひどい女だと思うでしょう。そんな病弱な奥さんを追い出したりして。でも、最初に主人と付き合ったとき、そんな家族を持っている人だとは知らなかったんです」 「つまり……ご主人とあなたのことがその奥さんに知れて?」 「ええ。奥さんの方が我慢できなかったんです。浮気をするような不潔な夫と一緒に生活するのが。主人がいくら謝まっても宥《ゆる》せなかった。わたしは、主人と付き合えるのなら、愛人のままでも満足でした」  桃子はかなり立ち入ったことを話した。だが、それで打ち解ける気持にはならない。逆に、桃子はどんどん進介から遠退いていく感じだった。  進介は自分の先入観を訂正しなければならなかった。桃子は情熱家だがただ情のままに行動する、という女性ではなさそうだった。 「わたしが主人の家に入ると、珊瑚は白い目でわたしを睨《にら》み、口もきいてはくれませんでした。勿論、すぐ打ち解けないだろうとは思っていましたが、予想以上だったんです。細かいことは一一言いませんけれど、そのうち、珊瑚は学校へも行かなくなり、わたしの作った物を一切口にしないようになってしまいました」 「登校拒否、拒食症」 「ええ。最近はそれがますますひどくなって、そのままだと危険な状態になる、とお医者さんから言われ、入院を勧められたんです。ここへ来てからは、多少物を食べるようになりましたけれど、わたしに対する態度は相変わらずで……」  こんなとき、その話題を持ち出すのがためらわれたが、進介は思い切って言った。 「昨日、あなたは玄関の前で車に接触しそうになりましたね」 「……ええ」 「もしかして、あのとき珊瑚ちゃんが突き飛ばしたんじゃないですか」  桃子はびっくりして進介を見た。 「どうして……そんな怖ろしい……」 「違うんですか」 「……そんなこと、考えられません」 「違っていたら、いいんです」 「あの子はそうまでする子じゃないわ」  言葉は強かったが、その直後、桃子は空白な表情になった。  進介は訊いた。 「珊瑚ちゃんは昨夜、何を怖がったんでしょう」 「……あなたは、見ていたんですか」 「ええ。僕がいた位置から見えました」 「……じゃ、言ってしまうわ」  桃子の頬が血の色になった。 「わたしの部屋に、笹木先生が来ていました」 「先生とは、前から?」 「……二度目——と言っても信じてもらえないかしら」 「信じます。さっきも言ったでしょう。あなたはナイーブで嘘が吐《つ》けない人です」 「……先生はわたしが看病で疲れていると思い、栄養剤を持って来てくれたんです。そして、少し話をして。わたしだって、怖かったわ」 「先生が?」 「いえ。わたし自身。先生にちょっと触れられただけで、催眠術にでも掛けられたようになってしまって。そんなこと、はじめて——」 「昨夜、珊瑚ちゃんは寝ていたんでしょう」 「ええ。でも、廊下でびっくりするような音がしましたね。笹木先生はすぐ補助ベッドの下に隠れたんですけれど、あの子はその前に目を覚まして先生を見たのね」 「珊瑚ちゃんは前にも怯えたりすることがあったんですか」 「判らない。珊瑚はわたしの前では絶対に感情を出さない子だから」  そのとき、二階から玲が降りて来て、ロビーを見渡し、すぐ、進介と桃子を見付けた。 「早崎さん、電話はお済みですか」 「はい」 「院長先生のお話があります。すぐいらっしゃって下さい」  玲はそれだけ言うと階段を登って行った。  桃子が立ち上がって、進介に言った。 「昨夜は、ごめんなさい」 「……何のことですか」 「あなたの部屋で——」 「覚えていません。僕は薬が効いたのか、あれからすぐ眠ってしまいました」  階段の下で、桃子はちょっと立ち止まった。 「小湊さん、あなたは優しい方ですね」  進介は桃子が院長室へ入るのを見届けて、その足で地下の霊安室に向かった。  耳を鋭く研《と》ぎ澄《す》ませるが、全員が引き上げたようで人が動く気配はなかった。昨夜と違うところは、引き戸の内側から洩れている明りだった。戸に耳を当てると、小さな呻《うめ》きのような声が聞こえる。海方の鼻唄だ。進介はそっと引き戸を開けた。 「海方さん、大丈夫なんですか」  海方が移動ベッドの前に立っているのが見える。 「おう、小湊君か。そっと入りや」  振り向きもせずに言う。進介は霊安室に入り、引き戸を元通りにした。部屋の中は線香の煙が立ち籠めている。 「連中もあまり気味が良くなかったんだろう。電気を消さずに行ってくれたので助かる。まあ、長くはいられねえから、よく見や」  ベッドの白布が退《の》かされ、珊瑚の白い顔が見える。比較的穏やかな表情だった。 「心臓麻痺だ、そうですね」  と、進介は合掌してから海方に言った。 「誰から聞いた?」 「早崎桃子です」 「他には?」 「珊瑚が死んだなんて信じられない、と」 「そうか」 「変死じゃないんですか」 「俺もそう思って忍び込んだんだ。だが、ざっと見た限り、外傷はない」  海方ははだけた珊瑚のパジャマの前を合わせた。裸の胸に骨が算《かぞ》えられるほどで、乳房の隆起はほとんどない。 「ただし、パジャマのポケットに、こんな物があった」  海方は白布の下から黒光りする物を取り出した。 「ピストルですね」 「ああ、玩具のね。力松が持っていた物だった。モデルガンでも火薬を入れれば、かなり大きな音がする」  海方は拳銃を進介に手渡した。  六連発のリボルバーだった。弾倉を開くと本物と同じように六発の弾丸が装填されている。弾丸の底に赤いプラスチックの玉が埋め込まれ、これが音を出す火薬らしい。六発のうち、三発が黒く焦げている。短い銃身にYELLOW JACKETと読める。 「三発、使ったようですね」 「うん。そのうち、一発はギャンブルパーティの夜、力松が撃ったものだ。あとは判らねえ」 「イエロージャケットとあります」 「戦時中アンセタ社が製造した。その種では名器とされるもののモデルだ。イエロージャケットの意味が判るか」 「……黄色いジャケットですか」 「その心は?」 「……さあ」 「スズメバチ。スズメバチはペプチドという小型タンパク質の強力な毒を持っている。これで、毎年何人もが死んでいる」 「……蜂の一撃ですね」  進介は拳銃を海方に返した。海方は拳銃を珊瑚のポケットに戻し、白布を掛け直した。 「変死なら病院は警察へ届ける義務がありますね」 「それはそうだが、ごたごたを起こしたくなかったら、頬被《ほつかぶ》りする手もある」 「……それで、いいんですか」 「おい、頭の痛《いて》えことを言うな。前に言ったはずだ。俺はここへ保養に来ているんだ。特犯の連中の顔は見たくもねえ」 「海方さんが変死に関わったとすると、当然、特犯が来ます。海方さんは特犯に妙な謎を持ち込んだじゃありませんか」 「それなんだ。ありゃ、君を呼び寄せる口実だったが、とんでもねえ。冗談から駒が飛び出した」 「……もし、これが殺人だとすると、早く手を打たなければ」 「そりゃ、言われねえでも判っている。しかし……」  海方が難しい顔をしたとき、霊安室の引き戸が音を立てた。二人は急いで祭壇の後ろに身を潜める。祭壇は白布で覆われているが、ちょっとした隙間から向こうが見える。そっと目を動かすと、戸を開けた人物が視界に入った。  婦長の留美子だった。留美子はベッドに近付くと白布をずらせ、困り切ったような表情で珊瑚を見ていたが、そっと手を伸ばした。目を近付けて、瞼《まぶた》を返し、鼻孔を見、口を開けた。そして、手に持っていたゴム管を口腔に差し込んだようだ。ゴムの端は透明な瓶に接続されているのがちらちら見える。  しばらくすると、留美子は作業を止め、珊瑚の口腔からゴム管を引き抜き、丁寧な手付きで口を閉じ、白布を元通りにして、軽く目礼して霊安室から出て行った。  引き戸が閉まって、二、三分してから海方がうなずいた。 「見えたか」 「ええ。すっかり見えたわけじゃありませんが、留美子が珊瑚の口にゴム管を入れて胃液を採って出て行きました」 「……ここで、死因を確かめようとしているんだな」 「病院も、珊瑚の死因を疑っている証拠です」 「そうだ。病院は珊瑚の胃液に関心があるとすると、毒を飲まされた、と見ているんじゃないか」 「そうです」 「しかし、珊瑚は昨夜、ナースステーションで過ごしたんだな」 「……珊瑚がナースステーションに行くとき、牛乳を持って行きました」  海方が口をへの字にさせた。 「自分の部屋からか」 「そうです」 「……とりあえず、疑うとすれば、その牛乳だな。ナースステーションで変な物を飲まされたとは思えねえ」 「その前に桃子がロビーの自動販売機で、牛乳を買っているのを見ました」 「……桃子と珊瑚はしっくりいってなかったな」 「桃子の方は珊瑚と打ち解けるよう、一生懸命だったようです」 「おや……桃子の肩を持つのか」 「そうじゃありませんが、桃子が珊瑚を殺すとは思えませんよ」 「だがの。理屈だけで考えると、その牛乳のある部屋にいたのは、桃子と珊瑚の二人だけだった」 「実はもう一人、あの部屋にいたんです」 「……誰だ?」 「笹木先生です」 「何しに? いや、それを訊くのは野暮か。なるほどな。珊瑚はそれに気付いた、ってわけだ」 「多分、そう思います」 「そりゃ、一筋縄ではいかねえな」 「留美子が珊瑚の胃液を採って行ったとすると、ここで調べる気でしょう」 「そうだ」 「すると、病院は警察へは報《し》らせない気でしょう」 「まあ、そうだ。病院で片付けてしまうだろう」 「警察に介入されると、工合の悪いことがあるんですね」 「……俺もそうだ。ひどく工合が悪い」 「じゃ、海方さんは全てを見逃すつもりなんですか」 「そうは言っちゃいねえ。だから、そう怖い顔はするな。どうも、真面目もいいが、融通がなくっていけねえ」 「僕は警察にいる責任があります」 「俺だって、特犯にゃ義理があらあな。しかし、今日はどうでも三河課長の面を見たくねえ心持なんだ。まあ、こんな事件なら、特犯を持ち出さねえでも、俺一人で解決して見せるが、どうだ」 「……大変な自信ですね。鑑識も法医も必要じゃないんですか」 「ああ、あんなものは裁判のときの付け足しだ。この頭だけで事件を解決するのが本当のプロだ。銭形平次を見や」  自信過剰の上に空想まで混り込んでいる。進介は仕方なく言った。 「すると、僕は平次の子分のガラッ八ですか」 「おう。その心だ。俺はそういう意気が好きだ」 「そりゃ、組織の中にいて命令されるよりは、一人で謎が解ければ面白いはずです」 「うん。段段、人間らしくなったな。じゃ、八や。すぐ行動を起こそう。まず、桃子だ。君はもう桃子と昵懇《じつこん》らしいから、問題のミルクに何かなかったか訊き出すんだ」 「へい、親分」  進介はそう言ってばかばかしい気がした。 「俺は、留美子の方を当たってみる。近頃、留美子は俺を見る目が違う。立ち入ったことでも喋るはずだ」  海方の自信は止まることを知らなくなっている。  だが、すぐその直後、二人の捜査は脆《もろ》くも挫折してしまった。  進介がそっと霊安室の戸を開けた瞬間、霧のようなものが顔に掛かった。と思うとすぐあたりが白っぽくなり、意識がするすると消えていった。 「八、どうした……」  後ろで海方の声がしたのが最後だった。  気が付くと進介は手足を縛られて地面の上に転がされていた。  薬のようなものを顔に吹き付けられたのが、つい今しがたのようでもあり、かなり時間が経過したようでもある。進介は上体を起こしてあたりの様子を窺《うかが》った。見えるものは何もない闇の中だった。臭いでは昨夜忍び込んだ防空壕に投げ込まれたらしい。  しばらくすると、ドアの形に光が差し込み、二人の人影が近付いて来た。 「気が付いたようね」  留美子が持っているライトを進介の顔に当てた。 「もう一人はまだですよ」  と、笹木が言った。  進介から二メートルほど離れたところに、矢張り手足を縛られた海方が転がって、口を開けて寝ていた。とても、銭形平次とはほど遠い姿だった。 「起こしましょうか」  と、笹木が言った。 「そうして下さい」  留美子はライトを上向きにして床の上に立てた。 「海方さん、起きなさい」  笹木は海方を揺すった。 「薬が強すぎたんじゃないかしら」  留美子が心配そうな顔をした。 「そんなはずはない。元元、この男、寝るのが好きなんです」  笹木は海方の頬を叩き、指で瞼をこじ開けた。それで、やっと海方はもぞもぞ動きだした。 「お早う、海方警部」  と、笹木が皮肉っぽく言った。海方はあたりを見廻して言った。 「うう……矢張り二度寝は飯を食ってからの方が極楽だの」 「目が覚めるとすぐ食い気ですか。なに、こんな真似はしたくなかったんですが、あなた方の行動が気に入らなくてね」 「ははあ……霊安室を覗き込んだのがいけませんでしたか」 「ここだけの話じゃない。最初からよ」  と、留美子が強い言葉で言った。海方に好意を寄せているなどとは絶対に思えない口調だった。 「海方さん、あなたは今まで、仮病を使って来ましたね。態《わざ》と妙な言動をして、院長やわたし達を欺して来たでしょう」 「……嘘で臍がなくなりますか」 「その後のことです。今まで、わたしはあなたの正体が判らなかった。日本画家だというのを疑わなかったわ。でも、昨日、小湊さんが入院して来たでしょう。二人を並べて、はじめて前に会った人だと気付いたんです。あなたは警視庁特殊犯罪捜査課の海方警部ね」 「……とうとう露見しましたか。あなたはなかなか記憶力がいい」 「ばかにしないでよ。あなたの顔はすぐ忘れられるような形じゃないわ」 「恐れ入ります」 「……判っているのかしら。顔立ちが良いので忘れられない、という意味じゃないのよ。一体、何の下心があって、身分を偽ってここに入院したんですか」 「そりゃ……警察の刑事と言うより、日本画家の方がお金がありそうで、女性に対しても有利、と思ったからです」 「じゃ、小湊さんは何ですか」 「小湊君は別に身分を変えたりはしません」 「でも、海方さんが呼び寄せたのでしょう」 「まあ……そうです。一人だと、ちと、退屈でして」 「本当のことをおっしゃい。そうしないと、いつまでもこのままにして置きます」  珊瑚の死が、誰が見ても病死なら、こんな目には遭《あ》わなかったはずだ。病院に変死が起こった以上、海方が本当のことを言っても、留美子はとうてい信じまい。進介は海方がどう切り抜けるかと思っていると、 「つまり、こういう事態を予想して、私達が警察から送り込まれた、と考えていらっしゃるご様子ですな」  と、開き直ったように言った。 「それより考えられないじゃありませんか」 「なるほど。それで、あなた方は、今度のことで警察に踏み込まれるのを迷惑に思っていらっしゃる」 「……そうよ」 「だったらご安心下さい。私達はこの件を警察に通報することは絶対にありません」 「……信じられないわ」 「でしょうな。無理はない。でも、私は今迄ずっと佯狂《ようきよう》を装って来た。佯狂、ご存知でしょう」 「ヨウキョウ?」  留美子と笹木は顔を見合わせる。 「いや、かような患者を佯狂と、ま、洒落《しやれ》て言うのです。つまり、仮病を使って人を欺すこと。ずっと佯狂でいるのは案外と疲れるのでしてな。嘘にも飽きたことだし、この際、今から正直なことだけ言います。私は警察に連絡はいたしません」 「……この人、口先が凄くうまいみたい」 「うまいのは口ばかりでなく、捕物も名人なのです。こういうのはどうでしょう。昔、犯人が寺社や武家屋敷に逃げ込むと、そこは治外法権、町方の役人が踏み込めなかったのです。そんなときはどうするか。犯人を外へ誘《おび》き出し門から一歩出たところを御用。こうするのが定法《じようほう》でした。この病院を寺社に見立てましてな。この構内では犯人を逮捕しません。外に連れ出したところで手錠を掛ける。ここには一切、迷惑が掛かりません」 「……そんなうまくいくのかしら」 「そこが、私の名人であるゆえんなのです。私には正義がある。犯人を見逃しにはできません。また、難問を解き明かすことに、人一倍情熱を持っている男なのです」  じっと話を聞いていた笹木が言った。 「君は早崎珊瑚が死ぬのを予想していたのかね」 「いや、そういうのは神様。私は神様でなく名人なのですから、それほどの予知能力はございません」 「じゃ、警察は何を睨んでいたのかね」 「ふむ……それはいろいろでして、ま、目の光る幽霊であるとか、事件が明らかになったとき、それも表に出るでありましょうが、今のところは極秘であります」 「じゃ、珊瑚がなぜ死んだのか、判っているのかね」 「……今のところ、その件に関するデータが何もなく、下世話に言う、褌《ふんどし》がなければ相撲も取れない譬《たと》えでして」 「どんなデータが欲しい?」 「まず、基本的なことですな。珊瑚ちゃんの死が、病死か変死か」 「……外に洩らさないと約束するね」 「勿論です。私は正直者だ」 「……珊瑚は変死だった」 「矢張りね。すると、毒物を投与されたのでしょう」 「そうだ」 「毒は珊瑚ちゃんの牛乳のカップに入っていた」 「そう」 「その牛乳は母親の桃子が用意したもので、当然、桃子が容疑者だ」  それまで緊張していた笹木の頬が緩《ゆる》んだ。 「君は見掛け通り単純な男だね」 「じゃ、桃子が犯人じゃないとおっしゃる」 「ああ。あの人にはそのコップに毒を入れるチャンスはなかった」 「証拠がございます?」  笹木はちょっと留美子の方を見て、ばつの悪そうな顔をしたが、思い切ったように言った。 「昨夜、僕は桃子さんの部屋にいたんだ」 「なるほど……それで、コップから目を離さなかったわけですな」 「いや、僕だってそのコップが怪しいなどとは思わない。けれども、よく聞きなさい。僕があの部屋に行ったとき、桃子さんはいなかった。珊瑚ちゃんはぐっすりと寝ている。すぐ、桃子さんが牛乳のパックを持って帰って来た。珊瑚ちゃんは朝、目を覚ますと水を飲む習慣があるんだね。でも、いつも食の進まないのを見ているから、桃子さんはそれを牛乳にしようと考え、最近では牛乳をコップに入れて珊瑚ちゃんのナイトテーブルに置くようにしている」 「……それを、見ていたのですな」 「そう。桃子さんはコップを流しですすぎ、自動販売機で買って来た牛乳のパックの口を開け、コップに満たしてテーブルの上に置いた。この間、桃子さんに怪しい動作はなかった」 「ちょっと待って下さい。販売機から部屋までの道中は? そこで、桃子が何か細工をした、とすると」 「そんなややこしいことをしますかね。もし、桃子さんが牛乳に毒を入れる必要があるなら、僕が帰った後、いくらでもチャンスがあったはずだから」  進介は昨夜の桃子の行動を見ていた。だが、地下を歩き廻っていたことを知られたくないので黙っていた。笹木は続けた。 「桃子さんはコップをテーブルに置いた後、一度もテーブルには近付かなかったんですよ。僕といろいろ話をしているうち、例の騒ぎがはじまった。僕はすぐ補助ベッドの下に隠れ、桃子さんはドアのところ。珊瑚ちゃんが目を覚まして外に出る。騒ぎが静まっても珊瑚ちゃんは部屋に戻らず、そのままナースステーションへ。桃子さんは一度問題のコップを取りに部屋に戻ったが、戸口では花住さんが立っていたので、勿論、コップの中に何かを入れるような真似はできない」 「コップはそのまま集中治療室へ運ばれたのですな」 「そう。集中治療室というのは知っての通り、ガラス張りで看護婦のいるところからベッドがよく見えるようになっていて、怪しい者が出入りすることができない」 「珊瑚ちゃんはそこで牛乳を飲んだのですな」 「そう。明け方、牛乳を飲んでいる珊瑚ちゃんを花住さんが見ていた」 「……その後は?」 「それから間もなく息を引き取ったには違いないんだが、看護婦は検温に行くまでよく寝ていたとばかり思っていた」 「……じゃ、一体、誰がどうやって珊瑚ちゃんのコップに毒を盛ったんだ」 「だからさ、名探偵の推理をうかがいたいのさ。例の、ルーペが必要なら取って来よう」 「うう……」  海方が目を白黒させた。 「それとも、目の光る幽霊の仕業にするかね。または、突発性の病死だ」 「いや……そう、天井だ」  進介が予想した通り、海方は苦し紛《まぎ》れに変なことを口走った。 「天井がどうかしたんですか」 「まだ、二○四号室の天井を調べておりませんでした。もしかして、その天井に犯人が潜んでいて、天井に穴を空けて、真下にあるコップの中へと、毒液をたらりたらり……」 「もし、そんな穴が見付からなかったら?」 「私の負けとなりましょうな。珊瑚ちゃんの死は病死であります。病死なら、警察は何も言えません」  笹木は留美子の方を向いた。 「一応、この人に部屋を調べさせましょうか」  留美子は首を振った。 「天井なら、わたしでも調べられますわ。この人、信用がなりません。こうして置きましょう」 「ほう……いつまでですかな」  案外平気な顔で海方が言った。 「いつまでって……」 「一つだけ教えましょう。私は毎日何回か、特犯と連絡を取っているのですよ。それが、途絶えてごらんなさい。いつまでもこんな所に閉じ込められていれば、特犯の二人までもが行方不明。特犯には三河さんとか角山さんとか、怖くて嫌らしい男が沢山います。それが追跡犬ハチという悧口な犬を連れてこの病院へ押し掛けて来ます。ハチは私の体臭をちゃんと覚えているのですよ。それを頭に入れておいて下さい」 「…………」 「まあ、私としましては、もう少しこうして置いてもらった方が幸せ。というのは、縛られた手足が痺《しび》れてきたからでして。|β《ベータ》エンドルフィンというのをご存知かな」  留美子は笹木を見た。笹木は首を横に振る。 「脊椎動物の神経細胞中に生産される物質だそうです。これは脳内のモルヒネと言われるほどの鎮痛作用を持っている。生体はふしぎなもので、激痛が続くとこのβエンドルフィンの生産が活発になります。ほら、マラソンランナーがゴール近くなると一種恍惚とした表情になりますな。これをランナーズハイと言う。つまり、脳内のβエンドルフィンが増えた証拠ですが、私も縄の痛みがさっきから弱くなり、全身が痺れてうっとりとした心持になっているのですよ」 「気味悪い。この人、変態だわ」  と、留美子が言った。笹木が急いで海方と進介の縄を解いた。海方は満足そうに立ち上がり、 「笹木先生、あなたが人を縛る手際はなかなかのものですな。矢張り、その方のご趣味がおありでしょう」  と、言った。  八章 スコポラミン  進介と海方が解放されてロビーへ出ると、まだ病院はひっそりとしていた。  時計は七時を少し廻っている。眠らされていたのはわずかな時間だったようだ。 「まだ、朝食には小一時間もある」  と、海方が情なさそうに言った。 「ちと、ジュースなど頂戴して仕事に掛かりまする」  留美子は自動販売機の前に立つ海方を見ていたが、笹木に言った。 「笹木先生は先に行って院長へ報告して下さい」 「そうですね。早い方がいいでしょう」  笹木が二階へ姿を消す。海方は待合室の椅子に腰を下ろして旨そうにジュースを飲んだ。 「朝の冷たい飲物はまた別ですな。特に酔い醒め、いや……婦長さんも一ついかがです。買って来ましょう」 「いえ、わたしはいらないわ」  留美子は海方の前に腰を下ろした。 「それよりも……笹木先生をどう思いますか」 「若いがなかなか落着いた好男子ですな。それに、情感も豊かだ」 「きっと、桃子さんが誘惑したんだわ」 「ははあ……あの女性は肉感的です。もっとも、婦長さんにはかなわないが」 「そんなことは訊いていません」 「いや、失礼。正直というのも困りますな。しかし、結構です。こういう話は華やかで、病気の愚痴を聞くよりも好きです」 「わたしはこういう愛も否定しません。でも、噂が他の患者に広まると、ちょっとね」 「それはそうでしょう。私も口を慎むようにしましょう」 「それと……」  留美子は少し口籠《くちごも》った。それを見て、海方はうなずく。こういうときの海方の勘は驚くほどの冴えを見せる。 「つまり……笹木先生には他の女性がいる、ということですか」 「……そういうことですね」 「辻川|利里《りり》——あの可愛い小兎みたいな看護婦さんでしょう」 「どうして、それを?」 「なんの。読心術も探偵の心得。ちゃんと判ります」 「じゃ、わたしの言いたいことも判ったわね。笹木先生と早崎さんのことを辻川さんの耳に入れたくないの」 「判りました。充分、気を付けましょう。しかし、あなたも偉い。仕事ばかりでなく、それほど部下に気を遣う。いや、最初、四年前にお会いしたときからそう思っていました。こんな素晴らしい女性を奥さんにする男はどんな幸せ者か、と。ご結婚は?」 「……まだです」 「じゃ、意中の男性は勿論、いらっしゃる」 「まあ。危険な人ね。あなたにかかると、何もかも喋らされてしまいそうだわ」 「臍《へそ》のない癖に、とおっしゃりたいのでしょう。わはははは」  留美子は笑いを引っ込めた。遠くの方を見て、椅子から立ち上がる。 「誰、そこにいるのは?」  柱の蔭から、鈴木老人がのそりと現れる。 「今日、病院はお休みよ」  と、留美子は言い含めるように言った。 「判っておりますよ」  鈴木は相変わらず袖に緑色の筋が入ったトレーナーを着ている。 「日曜祭日は休み、土曜は半どん。ちゃんと判っちゃいますがね、病人には日曜も祭日もない」 「どこか、悪いんですか」 「昨夜、寝不足だっただ。というのが不思議な話で、内《うち》の長男の嫁にご先祖様が乗り移った。鈴木家の先祖は武士で、徳川方に大坂冬の陣で合戦した強者《つわもの》がいて、それが嫁に乗り移ったから、もう大変。一晩中、踊るやら駈け出すやらで、相当疲れ切ったらしく朝になっても枕が上がらねえ。とうてい飯も作りそうもねえから、ここの食堂にやって来たんです」 「朝食は八時からよ」 「それも、よく知っていますよ。何しろあっしゃ、文字原病院の第一号の診察券を持っているんだ」 「玄関は閉まっているし、どこから入って来たの」 「地下の自動車道から職員の通用口に入って来たんです。そう、誰か、亡くなりましたべ」 「…………」 「霊安室から線香の匂いがしていました。どなたですか」 「あなたには関係のない人よ」 「そりゃおかしいな。今まで、この病院が死亡者を隠したりしたことはなかった。ははあ……医療ミスだべか」 「違うわよ。困った人ね」  二人の話を面白そうに聞いていた海方が口を挟んだ。 「鈴木一号さん、お早う。いつもお元気そうです」 「やあ、探偵さんか。今年、八十八になりますよ」 「それは違うでしょう。いや、どう見ても、七十台にしか思えません」 「あんたは話すと、いい人だね」 「その上、正直でしてな。ところで、大坂冬の陣の発端をご存じか」 「……いや、俺の得意な歴史は戦前のことだけでね」 「なるほど、ごもっとも。なに、偉そうにするわけではないが、鈴木家のご先祖が大坂冬の陣で大活躍されたと聞きましたので、ちと、話す気になったのです。あの合戦、元はと言うと、一つの鐘でしてな」 「ほう、鐘がどうしただか」 「慶長年間、豊臣|秀頼《ひでより》は梵鐘《ぼんしよう》を作らせたのですが、その鐘の銘文の中に〈国家安康〉という文字を入れた。これが家康の気に入りませんで、その文字に家康という二字があるからです。つまり、その鐘を撞《つ》くのは家康の頭を引《ひ》っ叩《ぱた》く心だという」 「そりゃ、言い掛かりじゃねえべか」 「そう。喧嘩というのは、えてして言い掛かりからはじまるのが多いようですな」 「なるほど、今日は一つ悧口になっただ」 「ところで鈴木さん。昨夜の夕食のおかずを当ててみましょうか」 「……そんなことが判るべか」 「そこが名探偵。ええと……」  海方は額に二本の指を押し当てていたが、すぐ口を開いた。 「まず……煮物ですな」 「ほう……当たっただ」 「そう。芋に蒟蒻《こんにやく》に牛蒡《ごぼう》、芋などはこのあたりに自生しているヤマノイモで——何と言いましたか」 「トコロだ」 「そう。あれはなかなか乙な味ですな」 「こりゃ、驚いた。見ていたようだ。最近は近所でもトコロを食わなくなったものな。あんたは占師になった方がいい」 「なんの、探偵で満足しております。探偵と言うと、そう、気になる仕事を忘れておりました」  海方はのそりと立ち上がった。鈴木は呆《あ》っ気《け》に取られて、言葉をなくしている。  階段の踊り場まで来ると、留美子は足を止めて海方に言った。 「あなたは人を煙《けむ》に巻く天才ですね」 「恐れ入ります。その上、正直です」 「あの鈴木さん、本当にしつこいんですよ。お蔭で助かりました」  進介が訊いた。 「どうして、鈴木さんの夕食が判ったんですか」 「そんなものはわけはない。鈴木老人の長男の嫁に先祖が乗り移ったと言う。ははあ、こりゃ、幻覚作用を起こす毒物を食ったな、と思っただけだ」 「……毒物ですか」 「まず、間違えて食い易いのは茸《きのこ》だが、茸狩りには季節が違う。次にゃヤマノイモ科のトコロだ」 「トコロ?」 「ただのトコロじゃない。ハシリドコロ。これはヤマノイモ科じゃなくて、ナス科の多年草。だが、見掛けはトコロに似ているので、間違え易い。芋といえば煮物だから、当たりを付けると、矢張り鈴木の家じゃトコロを食っていた。そのトコロにハシリドコロが混っていて、鈴木の長男の嫁は気の毒にそれを食ったのさ」  留美子は目を丸くしている。海方は付け上がるように、えへんと言ってから、 「ハシリドコロを食った人は幻覚が生じ、狂ったように走り廻るところからこの名が付けられたのですな。漢名を|莨※[#「くさかんむり」/「宕」]《ろうとう》。幻覚を起こすのは、スコポラミンという毒成分で、ただし、少量ならこれは薬になります」 「目薬ね」  と、留美子が言った。 「さすがよくご存知です。ロートエキスは瞳孔を開いて目をぱっちりと輝かせる。あなたの瞳のように」 「まあ……」 「というように、私に掛かれば、どんな難問でも立ち所に解いてしまう。まあ、珊瑚ちゃんの件でも、食事の前までには片が付くでありましょう。これを俗に朝飯前、快刀乱麻を断つ、と申します」  海方がルーペを持って桃子の部屋に入ると、桃子はびっくりしたように椅子から立ち上がった。 「探偵さんがこの部屋を調べたい、と言うのです」  と、留美子に言われ、桃子は納得したが、それでも不安そうだ。海方はそんなことに構わず、ざっと部屋の中を見廻し、桃子に昨夜牛乳のコップを置いた場所を訊いてから、ナイトテーブルのあたりに椅子を引き寄せてその上に乗り、ルーペを天井に向け、口をあんぐりと開けてその中を覗いた。誰が見ても正常な人間の姿には見えない。 「何かありまして?」  と、下から留美子が訊く。 「なに、天井に穴などはありません。小町《こまち》天井……いや」  海方は平然とそう言って椅子から降りた。自分の予想が外《はず》れたことなど少しも意に介していない。海方はその椅子にのっそり腰を下ろすと、桃子に訊いた。 「寝る前に牛乳のコップを用意するのは、毎晩の習慣ですかな」 「ええ。この一週間はずっと」 「珊瑚ちゃんは朝起きると必ずそれを飲む」 「いえ、そのときの気分で、手を付けないときや半分で止してしまったりします」 「そんなとき、牛乳はどうしますな」 「わたしが頂いています」 「なるほど。あなたは偉い。食物を分け合うのは心も分け合う意味になりますからな」 「はい、珊瑚に少しでも気持が通じれば……」  言い掛けて、桃子はその質問の怖ろしさに気付いたようで顔色を変えた。もし、昨夜、廊下に騒ぎが起こらずに珊瑚が朝まで寝ていて、その上、牛乳を飲まなかったとすると、毒を飲まされるのは桃子の方なのだ。しかし、海方は惚《とぼ》けているのか相変わらずの調子で、 「珊瑚ちゃんはお薬を飲んでいましたかな」  と、質問を続ける。 「ええ。毎日、三回」 「どんな薬でしたか」 「……入院したときは衰弱がひどくて点滴をされていましたけど」 「いや、以前のことはよろしい。最近の薬です」 「カプセルが二つと、錠剤が三つ。あとは散薬です」 「薬の名が必要ですか」  と、留美子が訊いた。 「いや、薬名などはどうでもよろしい」  本気で捜査をしているのか疑いたくなる返事だった。  海方はナイトテーブルに目を移し、読書台に開かれたままになっている本にルーペを当てた。 「井成蝶《いなりちよう》著〈リベルテを買う女〉珊瑚ちゃんはいつもこの台で本を読むんですな」 「ええ。長く本を持っていると疲れるらしいんです」 「青春物語ですな。珊瑚ちゃんはこの作家が好きでしたか」 「ええ。最近ではその人のものばかり読んでいました。昨夜も読書を止めさせて寝かせるのに苦労しました」 「なるほど……おや?」  海方は本のページを繰っていたが、小さな紙片が挟み込まれているのに気付いた。そっと引き出してルーペを近付ける。 「これは、珊瑚ちゃんの手跡ですか」  海方は紙片を桃子に見せた。桃子は紙片を受け取ると、すぐ、 「そうです」  と、言った。 「何でしょうかな」 「……さあ。この病院にいる人達の名簿みたいですね」  海方はその紙片を進介に見せた。下手ではないが弱弱しく力のない文字だった。    文字原院長     総裁    笹木先生      探偵   ×田中婦長     ?和多本さん    花住さん      裸さん   ?辻川さん      力松さん    シェフ      ×双橋さん   ?鈴木一号さん   ?二○二号室              桃子             ×珊瑚             ?小湊さん   ×は死んだ人 「いや、これは凄い証拠です」  海方は進介からその紙片を受け取ってポケットへ入れた。  そのとき、外で大きな声がした。 「探偵はおらんか」  百田の声だった。それを聞くと海方は小走りに部屋を出て行く。 「探偵、珊瑚姫が破産したそうだな」  と、百田が言った。 「破産……その通り、気の毒に、破産をいたしました」  と、海方がもっともらしい顔をする。 「そうか……あの若さで惜しいことをした。それで、犯人は逮捕しただろうな」 「犯人……とは?」 「探偵、しっかりしろよ。珊瑚姫を破産させた悪い奴だ」 「……誰がそんなことを言ったんですか」 「誰も彼もあるものか。皆知っている。中にはもうこんな所にいられぬと言い、荷物をまとめはじめた者もいる。知らないのはお前だけだ」 「や。そうでしたか。でも、ご安心を。この探偵、必ず犯人を捕えてご覧に入れましょう」 「相手は手強《てごわ》いぞ。目に見えん幽霊だからな」 「ふむ、ふむ」 「昨日のことを覚えているな。目に見えぬ者がわしの魔法瓶の中に妙な物を入れた。奴はそれが成功したのに付け上がり、今度は毒物を使うようになった」 「これ以上、私の目が光っている以上、そうはさせませぬ」 「昨夜はどうしたのだ」 「……眠っておりました」 「もう、眠るな」 「そりゃ、さっき二度寝を——いや」  百田は海方の後ろにいる進介を見た。 「そこに従えているのは、昨日入居した若者だな」  海方は目で進介にお辞儀をしろ、と言った。進介は嫌嫌《いやいや》頭を下げる。 「さようでございます。この小湊は今日から私の手下となりました」 「それはいいことをした。どうもお前一人では手不足だと思っていた」 「ご覧の通り、なかなかの美丈夫であります。この若者さえおれば鬼に金棒」 「ところで、葬儀だが」 「……はあ?」 「探偵、今日はどうも鈍《にぶ》っているようだな。葬儀と言えば、珊瑚姫の葬儀だ」 「や。その通り。あの子も昨日の報告会には出席もしましたし、われわれの身内も同じでございますからな」 「盛大に弔《とむら》ってやろうと思う」 「いつもながらのご厚情で」 「費用は千三億円もあれば、どうだ」 「……結構で」 「お経は楽に読んでもらおう」 「……あの、アダムさんが。裸で?」 「そうだ。もっとも、いつもの裸でもなかろうから、頭だけ裸にさせる」 「頭を?」 「鬘《かつら》だけ取れば、ちょうどいい坊主になる」 「鬘というと……アダムさんの毛髪は鬘だったのですか」 「頼りにならん探偵だな。あの男の頭はつるつるに禿げとる」 「知らなかった。私の臍《へそ》と同じだ」 「いつか、楽が誰も見ていないと思い、珊瑚姫のスカートをめくり上げたことがあった。珊瑚姫は凄く怒って、矢庭に楽の毛を引っ張った。そうしたら、鬘がすっぱりと取れてしまった。わたしは楽の頭が剥《む》けてしまったのではないか、とびっくりした」 「……それが、鬘だったのですね」 「楽は面白い男で、人前で裸になるのは何でもないが、頭の裸を見られるのはひどく困るらしい。そのとき、一部始終を見ていた俺に気付いて、このことは秘密にしてほしいと言い、わしと珊瑚姫に一億円をくれた」 「……そんなに頭を見られるのが嫌だとすると、坊主になる役は嫌がるかもしれませんよ」 「嫌だったら鬘のままでいい。本当は坊主だ。仏様ならお見通しだろう」 「式は早い方がよろしいでしょう」 「そうだな」  百田は、さっきから二人の遣り取りを不安そうに見守っている留美子に言った。 「マドンナも式にはぜひ参列して下さるよう願います」  留美子はうなずいただけだった。  桃子の部屋の隣のドアが開いた。鞄を持った双橋が背を丸めて階段の方へ行こうとする。 「双橋さん、お待ちなさい。どこへ行くの」  と、留美子が呼び止めた。 「会社へ出勤です」 「今日は日曜日。会社ならお休みでしょう」 「でも、行かないと。休んでいると、不安なんです」 「会社は開いていないわ」 「この目で確かめないと。僕が休んでいる間に、会社で仕事をして成績を上げようとしている奴がいるんです」 「……そりゃ、行くのもいいですけど、朝食はまだでしょう」 「朝食を摂《と》っている閑はないんです。どこかで弁当を買って行きます」  そのとき、海方がのっそりと双橋に近付いて妙なことを言った。 「追い掛けられなければ、逃げない方がよろしい」  双橋はぎくりとしたように海方の顔を見た。 「と、ある奇術師が言いましたが、なかなかいい言葉でしょう。追い掛けられもしないのに逃げ出せば、誰でもその人を怪しいと思うでしょう」 「……僕が逃げる、と言うのか」 「そう。珊瑚ちゃんの死が変死だというのを知りましたな。とすると、警察がここへやって来ていろいろと取調べられる。そりゃ、誰でも愉快じゃない」 「…………」 「ご安心なさい。私も同じだ。警察が嫌いでね。ここの院長もマドンナもそうなのです。ですから、警察はここへは来ません。ここには有能な探偵がいるからです」 「……君は総裁付きの探偵にすぎないじゃないか」 「だが、本当の正体を知ったらびっくりしますぞ」 「ゴム製の顔の皮でも剥ごうというのかね。ばかばかしい」  双橋が階段の方へ行こうとすると、ちょうど楽の部屋から辻川が出て来た。中断された検温を続けているらしい。 「さあ、双橋さん。検温をします。部屋に戻りなさい」 「いや……僕は会社に……」 「会社なんか後。身体の方が大切でしょう」  双橋の腕を取って否応《いやおう》なく部屋へ連れて行く。  留美子が海方に言った。 「こんなことをしていて、本当に真相が判るんですか」  海方は尖った鼻先をうごめかして、 「勿論、私の言動には一つ一つ深い意味がございます。ただ遊んでいるように見えるときがありましても、それが私のやり方だとお考え下さい」  と、特犯で三河課長に言うのと同じことを言った。海方はそんなことを言いながら、本当に怠けていることが多かった。 「さて、これからアダムさんに和尚《おしよう》の役を頼んで来ることにしましょう」 「じゃ、わしは弔詞《ちようじ》を書こう」  百田も自分の部屋に入る。  双橋の部屋から辻川が出て来た。小鬼みたいにすばしっこい足取りで、今度は和多本秋代の部屋へ。  海方が楽の部屋に入る閑もなかった。弾《はじ》き出されるように、秋代の部屋から辻川が飛び出して来た。 「婦長。和多本さんが、変です」 「えっ」  留美子は顔色を変えた。すぐ、秋代の部屋に駈け込むなり、 「辻川さん、すぐ、院長と笹木先生に来てもらって」  と、叫んだ。  辻川が診察室へ駈け込む。  院長と笹木が秋代の部屋へ。あっと言う間にベッドがナースステーションへ運び去られる。  物音を聞き付けたのだろう。百田が自分の部屋から出て来た。 「探偵、どうしたんだ」 「今度はピューリタンの和多本秋代です」 「また、破産か」 「いや、どうやら、今度は再建が可能と思われます」  進介でもそれが判った。秋代はとろんと目を開け、口から涎《よだれ》を流していたが、死人の顔ではなかった。ベッドからだらりと出した腕に、黒い文字盤の時計を付けているのがふしぎな印象を残す。 「今度も毒物か」  と、百田が海方に言った。 「そのようですな。昨日の夕食までピューリタンはぴんぴんしていました。ただし、素人がただ顔を見ただけで、何とも言えませんが」 「おい、しっかりしろよ。探偵の目の前で、二人も毒を盛られている」 「毒でない物は、もっと盛られているはずです。それが同一人物だとすると、どうも、偉い」 「凶悪犯を誉めるのか」 「いや……つい、妙な癖が出ただけです」 「また、目に見えない者の仕業か」 「目に見えない者……あ」  急に海方は慌てた口調になった。 「小湊君。昨夜、ピューリタンを見た、と言ったな」 「ええ。僕が廊下に出ようとすると、和多本さんがそっと自分の部屋に入って行くのが見えました」 「どこから来た?」 「廊下を歩いて来たのじゃなくて、他の部屋から出て来たように見えました」 「誰の部屋だ」 「僕の並びの部屋です。ですから、百田さんか海方さん」  百田が怒った声で言った。 「わしゃ、あんな神経質な女は嫌いだ」 「私は髪型が趣味ではありませんな。女は長い髪でないと」  と、海方が言った。 「小湊君。その後で、ピューリタンの部屋を覗いた、と言ったな」 「わしなら、多分桃子の部屋を覗く」  と、百田が言った。進介はそのとき秋代は窓を背にして誰かと話をしていたようだ、と説明した。 「相手の顔を見たのか」  と、海方が訊く。 「いえ、僕の位置からは相手の姿も見えませんでした」 「声は?」 「声も聞こえませんでした」 「その、相手がピューリタンに毒を盛った犯人だ」  と、百田が言った。海方はうなずいて、 「そう。それが、一番怪しい人物ですな」 「惜しいことをした。見ておけばよかったものを」 「いや、小湊君がいくら首を伸ばしても、その者は見えなかったと思いますな」 「一連の、見えない人物なのだ」 「いや。小湊君はここへ来て間もない。ピューリタンをよく知らないのでそう見えたのです」 「見えないと、見えた?」 「そう。総裁、あなたはピューリタンの喋り方を覚えていますね」 「うん。ほとんど口を開けなかったな。空気中の黴菌《ばいきん》が口に入るのを嫌っていたんだろう」 「ところで、小湊君。君が窓から覗いたとき、ピューリタンはどんな喋り方をしていたかな」 「顎が動いていました。だから、誰かと喋っていると思ったんです」  海方は満足そうに大きく息を吸う。 「総裁、お聞きの通りです。ピューリタンは後ろから見て顎が動くような話し方はしません。つまり、ピューリタンはそのとき喋っていなかったので、当然、相手などいないのです。いない者は見えませんな」 「じゃ、ピューリタンは何をしていたのだ」 「物を食べていた、と愚考します」  進介は急に眠りから起こされたような気がした。 「そうでした。あのとき、婦長が和多本さんの部屋を見廻りに来たんです。すると、和多本さんはネズミみたいな早さでベッドに潜り込みました」 「つまり、隠れて物を食っているところをマドンナに見られてはまずい、と思ったのです」  海方は続けた。 「元はと言うと、昨夕の夕食の出来事です。あれが尾を引いているのです。食堂で最初に桃子さんが珊瑚ちゃんのコップの水が変だ、と騒ぎだした。その騒ぎが大きくなって——思い出して下さい。ピューリタンはこんな食堂の食べ物は不潔だと言い、ほとんど何も口にしないで外へ出て行ったでしょう。そのため、夜になってから腹が減ってきたのです。この辺りは郊外で近くに食べ物屋もない。空《す》き腹を抱えて寝られないというのは、身内が死んだより悲しいもの」 「で、食べ物をどこからか手に入れて来て食べたのか」 「左様。私はさっき小湊君に、私の部屋でも妙なことが起きた、と言い掛けてつい忘れてしまいましたが、実は私の部屋にあった握り飯が消えていたのです。ピューリタンは私の部屋に握り飯があるのを知っていたのです」 「……探偵は握り飯を持っていたのか」 「はい。毎晩、夕食の後、シェフが作ってくれます」 「おい、そりゃ、汚いぞ。わしも一度握り飯を頼んだことがあったが、にべもなかった。大金を積んだがだめだった」 「ま、それは頼み方次第でしょうな。とにかく、夜中でも明け方でも、ベッドの中で食べる握り飯の味はまた格別なものです。というので、昨夜もシェフの握り飯を楽しみにしていたところ、朝起きたらこれがない」  それで、海方は朝から腹が減ったと騒いでいたのだ。 「探偵、その握り飯を盗んだのがピューリタンだったのか」 「そう考えると辻褄《つじつま》が合いまする」 「待てよ。その握り飯を食べたピューリタンが工合が悪くなった。握り飯の中身は何だ?」 「いつも、口の曲りそうな梅干だけです。だが、この梅干はとてもいい風味でして——」 「梅干の味を訊いているんじゃない。梅干じゃ、腐るわけはないな」 「とても。おまけに塩を効かして固く握り締めてあります。この陽気でも丸一日で腐るような代物じゃあない」 「すると……毒か」 「それより考えられません」 「シェフが入れたのか」 「それは……考えにくい」 「すると、お前か」 「どういたしまして。髪型が気に入らないといって毒を盛っていたのでは限《き》りがありません」 「じゃ、誰だ」 「昨夜はナイト——いや、よく寝ていまして」 「今、ナイトキャップと言おうとしたな」 「総裁もこのごろ鋭い」 「お前と付き合うようになってから、どうも油断がならない」 「私の方は油断していたのです。握り飯を盗まれようが、握り飯の中に毒を盛られようが、寝首を掻かれようが」 「お前の汚い首など取る者がいるものか」 「いや。よくお考えを。よろしいですか。もし、食堂であんな騒ぎが起きず、ピューリタンもちゃんと食事をして夜中に腹が減るようなこともなく、いつものように私が握り飯を食べたとすると」 「お前が工合が悪くなっているな」 「その段ではありません。死んでいるでしょう。私はいつも二つの握り飯を一粒も残さず食べてしまいますが、多分、ピューリタンはその内の一つを残していて、毒が致死量に及ばなかった、と愚考します」  海方が言った通りだった。進介が開け放された秋代の部屋を覗くと、ナイトテーブルの上に、竹の皮に載っている一つの握り飯が見えた。犯人が海方を殺害しようとした証拠だった。 「探偵、これじゃあ、うっかりと朝飯も食えまい」  と、百田が言った。 「でありますから、どうしても飯前に解決しなければならねえのです」  海方の顔にはじめて焦りの色が見えた。  辻川がナースステーションから飛び出して来た。廊下に立っている三人を見廻す。 「総裁さん」 「はあ」  辻川は返事を聞いただけで、海方の顔を見て、 「探偵さん。小湊さんもいますね」  点呼を取るように言う。二人ははいと言った。 「皆さん、身体に異状はないようね」 「私は腹が減っております」  と、海方が言った。 「お腹の空いているのは健康の証拠です」  辻川は一番端の力松の部屋を開けた。 「力松さん。すぐ、部屋から出て来て下さい。院長が特別療法をします」  その次は楽の部屋。辻川は同じことを告げた。  その間に、留美子と玲が出て来て、二○一号室の部屋に入ってベッドを外に出して非常口の前に運んだ。誰も非常口から出られないためのバリケードのようだった。  辻川にうながされて、力松、楽、双橋、そして桃子も廊下に出て来た。 「さあ、皆さん。二○一号室へ入って下さい。今、ベッドを出した部屋。判りますね」  と、辻川が指示した。  そこへ、鈴木が階段を登って来た。 「今日は、ずいぶん賑やかですね」  辻川はためらわずに鈴木の腕をつかんだ。 「あなたも一緒です。二○一号室へ入って下さい」 「俺も? そりゃ、光栄だが、一体、何があるのかね」 「それは、院長が説明します」  そこへ笹木が栄養科主任の福岡を連れてやって来た。福岡は迷惑そうだった。 「俺は、忙しいんだがね、先生」 「なに、手間は取らせない」  ベッドのなくなった二○一号室は、全員が入ってもまだゆったりしていた。玲と辻川が手分けをして丸椅子を運び込んで来る。  全員が思い思いに坐ったとき、院長の文字原弘一が部屋に入って来て、後ろ手にドアをぴたりと閉めた。  九章 ボツリヌストキシン  文字原弘一はいつも穏やかな顔がほんのり上気して、気分も高揚しているようだった。背広もいつもの紺ではなく、明るい胡桃《くるみ》色でゆったりとした赤いループタイだった。文字原はドアを閉めると全員を見渡した。進介は角縁の眼鏡の向こうの目が、普段より大きく開かれているのが判った。 「さて、皆さん。ここに集まってもらったのは、治療のためなのです。父、文字原弘太郎はこれを集団治療と言っておりました」  文字原の両側には、笹木と辻川、留美子と玲が神妙に話を聞いている。 「父はドイツの精神医、ブルクミューラー先生の教えを受け、その治療理論をこの国の人達にマッチするよう、生涯努力を続けて来た医師です。その基本となるところは、患者を正常人にも生じうる心理と受け止める考えです。あなた方は何等《なんら》かの形で社会生活がしっくりしない。それを考えると苛苛《いらいら》する、不眠が続く、集中力がなくなって無気力になる、身体が不調で不安と恐怖の感情が現れ易い。反対に自分の考えに忠実であろうとすると、社会の方が迷惑を被《こうむ》る。家族があなた方の自由さに堪えられない。会社がその人のために秩序が保てない。一般の人とはかなり違うユニークな考えを持っているからです」  文字原は淀みなく続ける。 「人は外から傷を受ければ怪我人。傷が脳に及ばない限りその人の人格は変わらない。内臓を病めば病人でこれも人格に異常は現れない。ただし、精神科の患者は反対で解剖学的には平常の人と変わらないのに人格が特異になってしまう。これは神秘的であると同時に極めて無気味だ。というところから、昔からその人達は特別扱いされ、迫害を受けた時代もある。しかし、医学の進歩とともにその謎も段段と明らかになってきて、怪我や病いと同じ、正常人にも生じ得る心理と解釈されるようになったのです」  福岡が坐っている腰をもぞもぞさせた。話が長くなると思ったらしい。 「ブルクミューラー先生がはじめた療法の基本は、まず、その原因、心の傷がどこにあるのか見付けること。と、言ってしまえば簡単ですが、原因は患者自身にも判らないことが多い。そこで、症状をあるがままに認めながら患者を観察する。ここでは、患者をあまり拘束しない。かなり患者の自由を認めているのはそういう理由からです。最初ここへ来た患者は矢張り不安で感情が敏感ですから、そのときだけは外の刺戟を避けて臥褥《がじよく》を主に生活をします。そして、段段に外出や人との交際に馴染《なじ》ませるように指導し、そのうち恐怖や怒りの対象だった家庭や社会とも心が通じるような方向付けをするのです。その過程で、今日のようにいろいろな人が集まり、自由に話し合える場を作るということも、大切な療法の一つなのです」  海方は目を半眼にしてじっとしている。空腹を堪えているのか眠くなったのか、どっちか判らない。 「長くここに入院している人は、こういうパーティを何度か経験しているでしょう、ここではどんな話をしても構いません。勿論、皆さんのプライバシーは保護されています。ここで聞いたことは絶対に外へ洩らしません。今朝、急にこれを思い付いたのは、二つの悲しい出来事が起きたからで、もう、皆さんも知っているでしょうが、一つは早崎珊瑚ちゃんの急死。もう一つは和多本秋代さんの急変です」 「すると、和多本さんは死にはしなかったんですね」  と、進介は黙っていられなくなって発言した。 「ええ。今、応急処置をして来たところです。もう、命に心配はいりません。勿論、事情を話せる状態ではありませんが。そう。今の小湊さんのように、どんどん質問して下さい。自由に話し合いましょう。被害に遭われた二人には申し訳ないような気がしますが、こういうチャンスはそうないことです」  そう言われて、最初に口を開いたのが海方だった。 「なるほど、先生は名医ですな。普通、医者てえのは自分が出した薬の名も言いたがらないのが多い。それに較べて先生は自分の手の内を全部|晒《さら》して治療なさると言う。いや、実に偉いもんだ」  最初の発言にしては、あまり内容がなかった。いつもの胡麻摺《ごます》りだ。海方が言い終わるのを待ち兼ねたように、福岡が立ち上がる。 「私にも言いたいことがあるんで言いますがね。どうも、このパーティにゃ、私は必要ないみたいですね。先生、私ゃ朝の仕度で忙しいんです。食堂へ帰らしてもらいますよ」 「まあ、お待ちなさい」  引き止めたのは海方だった。 「ぜひ、シェフの話も聞きたい。というのが、気を悪くしないで下さいよ。昨夕、シェフが作ってくれた握り飯を食べて、どうやらピューリタンが工合を悪くしたようなのです」 「何だって? じゃ、俺が塩の代わりに毒をまぶした、とでも言うのか。そんな毒が食堂にあるかないか、よく調べてから口をきくんだな」 「いや、それがシェフだとは言っていません」 「だが、握り飯を作ったのは俺だ」  文字原は二人の話を興味深そうに聞いていたが、 「君はいつからそんなサービスをするようになったのかね」  と、福岡に訊いた。福岡が口籠もると海方が言い添えた。 「シェフ、今、院長が言ったでしょう、プライバシーは保護されると。この部屋で喋ったのはここだけのことで、外へ出れば皆さんが忘れてしまうんです。だから、おっしゃい。あのサービスは海方に脅迫されてしていることだ、と」  文字原が不思議そうな顔をした。 「栄養科主任、君は何を種に強請《ゆす》られていたんだね」 「自分の口からは言いにくいでしょうから、私が説明しましょうか」  と、海方が言った。 「まあ、院長がこの場限りでそれを忘れてくれるんでしたらいいでしょう」  と、福岡がふてくされたような顔をした。 「それに気付いたのは、皮肉にもシェフが素晴らしい腕だったからです。聞くとムッシュウ ランバンで修業をしたという。それが、どういういきさつからか病院の栄養主任になっている。毎日、三度食堂へ行くのが楽しみなほど、幸せに思ったものです。腕も確かなら材料もよく吟味されている。ただし、強《し》いて難を言うなら、米ですな。これはおかしい。食物の基本は米。その米のために折角の料理が割引きになってしまう。このシェフが肝心な米に注意を払わないわけはない。と思っているとき、たまたま、病院の出入りの米屋に出会《く》わしたのです。そこで、さり気なく鎌を掛けてみると、その元凶はその米屋でした。確か、犬山米穀店と言いましたか」 「シェフはその米屋に欺されていたのか」  と、文字原が訊いた。 「いや、脅されていたのです。犬山米穀店はシェフの秘密を握っていて、それを院長にばらすぞと脅し、古米を普通の値で売り付けていた、悪い男です」  福岡が頬を脹《ふく》らせる。 「お前だって同じ種で俺を脅迫して握り飯を作らせた。探偵も悪い男なんだ」 「わはははは。その通りです。その種というのは、四ヵ月ほど前、シェフが働いていたフランス料理店で食中毒を出した事件。中毒はボツリヌス菌に汚染された、ハムだったということです」 「ボツリヌストキシン……細菌毒の帝王と呼ばれている、世界の五大猛毒の一つです。あの青酸カリの千分の一の量で人が死にます」  と、文字原が言った。 「他の三つは?」  海方は首を廻して笹木に訊いた。笹木は口をもぐもぐさせただけだった。文字原が答えた。 「テタヌストキシン、ジフテリアトキシン、グラミシジン……」 「聞くだけで恐ろしいですな」  と、海方が首をすくめるようにして言う。 「いや。昔からそうした毒物は、適量を使うことで病気を治す薬になることが知られているのですよ。〈継母の毒〉とも呼ばれているトリカブトから取れる猛毒|附子《ぶす》は華岡青洲《はなおかせいしゆう》の麻酔剤としてなくてならない薬でした。最近ではボツリヌストキシンでさえも、精製されて麻痺性斜視などに効力のある薬とされているほどです」 「なるほど……実はそういうことで、このシェフは六ヵ月間の就労禁止を言い渡されていたのです。だが、その期間はまだ過ぎていません。それを隠してここに勤めはじめたことを犬山米穀店に嗅ぎ付けられてしまったのです」 「半年も働かなかったら、身体が鈍《なま》ってしまいますよ」  と、福岡が言った。 「たまたま文字原病院で仕事をしていた前の栄養主任が友達でしてね。この男が放浪癖のある男で、ちょうどそのころその病いが出て、栄養士の後釜を探していたんです。それで、私がぶらぶらしているのを知って、世話してくれたんです」 「道理で口喧《くちやか》ましい。石鹸で手を洗えとか、食物を部屋に持ち込むな、とか」 「もう、食中毒には懲り懲りしていますからね。ここでも事故を起こしたら一大事でしょう」  福岡は再び立ち上がった。 「さあ、綺麗さっぱりと懺悔《ざんげ》しましたから、もういいでしょう。第一、私は病人じゃない。後は皆でやって下さい」 「いや。病人でないのは、シェフだけではないのですよ」  と、海方が言った。 「また、あんた難癖を付ける気かい。病気でもない者が、なぜ入院なんかするんだ」 「予防を考える人がいるでしょう。会社では毎日馬車馬のごとくこき使われ、家庭に帰ると妻ががみがみ言う。これじゃ早晩病気になってしまうというので、予防の意味で静かな病院へ入院してしまう。どうです」 「そんな用心深い人は誰かね」 「私です」 「それなら、温泉へでも行った方が保養になる」 「それは、趣味の問題です」 「……入院が趣味とは異常だ。矢張りそりゃ病気だよ」  文字原が言った。 「海方さんは確か、手術の後遺症か、急に物忘れがひどくなった。意識が混濁する、と訴えてきましたね」 「今度は私が懺悔をする番ですかな。いや、院長には悪いと思いながら、今まで佯狂《ようきよう》を装って来ました」 「佯狂……あれは嘘だったわけか」 「全て、月給を頂戴しながら保険で静養しようというあさましい了簡《りようけん》でした。ここの看護婦さんは皆美人の上、扱いが親切。それを知ってからその企みを考えたわけです」 「さっき、婦長から聞いたのだが、小湊さんもあなたと同じところに勤めている、という」 「はあ……この男は大変に真面目で仕事に熱心すぎます。こういうのにかぎり、燃えつき症候群を起こし、突然、自己嫌悪、仕事拒否を言い出すもの。この際、いい機会だから、一緒に佯狂をしようと考えたのも、先輩としての老婆心からです」  文字原は苦笑《にがわら》いした。まんまと仮病を使われ、怒りたいのだが、海方の態度が憎めないのだ。海方は続けた。 「今、院長がおっしゃった通り、精神科の患者は解剖学的には正常人と変わらない。ために、世間を欺す方としてはまことに仕事が楽であります。古くは大石|内蔵之助《くらのすけ》も昼|行灯《あんどん》と言われたりして一種の佯狂、芝居には敵を欺《あざむ》く智略として使われることが多い。『仲蔵狂乱』『団十郎狂乱』などいろいろ面白いのがあります。実はここにもまだ佯狂が入院していましてな」 「まだ、いるだと?」  さすがに文字原も笑いを引っ込めた。自尊心を傷付けられたに違いない。 「それは、僕です」  と、力松が言った。 「昨夜、ここにいる小湊さんに打ち明けてしまったから、隠しおおせるとは思わないので白状します。本当は僕は病気でもなんでもないんです」 「君は確か、無気力、記憶障害。寝ていると夢に誘われて歩き廻るという複雑な症状があったはずだ」  海方が揉み手をしながら文字原に言った。 「ま、立腹はごもっともですが、この力松さんは選《よ》りに選って、夢遊病に目を付けたところが面白い——いや、興味があります」 「夢中遊行をして、どんな利益があるのかね」 「院長は恐らく欺されたことがないので、想像の外でしょうが、夜中に歩き廻って、他の部屋を覗き込んでも、病人だから仕方がないと、相手が安心する利点があります。夢遊病者は覚めると遊行中の記憶は全くなくなります」  文字原の横にいる留美子が言った。 「昨夜、わたしが二○二号室にいると、誰かが窓の外から覗いたような気がしたわ。あれは力松さんだったのね」  力松はばつの悪そうな顔でうなずいた。 「正面から当たったのではしくじると思い、搦《から》め手から廻ったのです。あの二○二号室を見せて下さいと言ったら、すぐ、見せてくれますか」  文字原と留美子は顔を見合わせた。文字原が言った。 「いや、断わる」 「でしょう。ですから、悪いとは思いながら、非常手段を使ったんです」 「君は……あの部屋で、何を見たんだ」 「素晴らしい絵です」  文字原はそっと溜め息を吐《つ》いたようだった。 「先生、美島百合子というのは、先生の奥さんの名ですね」 「……そうだ」 「百合子さんは二○二号室で、ずっと絵を描いていらっしゃる」 「妻は……心因性なのです。好きな絵を描くのは心の安定につながる」 「僕はずっとあの絵を捜していたのです」 「……君は妻の絵を前に見たことがあるのか」 「はい。僕の店に三点の絵を持って来た人がいました。よく話を聞くと、その絵は奥さんの付き添い婦をしていた人が持っていたことが判ったんです」  文字原は留美子の方を見た。留美子は言った。 「細井さんです。細井さんは最初から奥さんに付き添っていました」 「妻が絵をやったのだろうか」 「そう思います。細井さんは奥さんの絵が好きで、よく誉めていました」  文字原は力松に言った。 「君はどうして妻の絵など捜しに来たのかね」 「ただ、素晴らしいからです。その細井さんという人も奥さんの絵が好きだったようですが、素人でしょう。そういう人の手に渡って散逸してしまってはいけないと思ったんです」 「確かに、妻の絵は特殊な心象を表わしていると私も思う。芸術的な意味では判らないが」 「いえ、先生。昔から狂気が精神を飛躍させ、芸術的な創造力を開花させた多くの天才芸術家がいるのをご存知でしょう。奥さんも疑いなくその一人です。その絵の前に立つと、僕たちは不安と恍惚、高揚と錯乱、幻想で美が溶解してゆくさまを体験して震撼するのです。今まで、僕がこうしたショックを感じた絵は、ざらにはありません」 「……あなたは、ずいぶん百合子の絵を買い被っている」 「いえ、そうは思いません。きっと、近い将来に奥さんの絵を評価されるときが来るに違いありません」 「で、妻の絵をどうしたい、というのですか」 「とにかく、今のところは大切に保管してほしいと思います、後のことは改めてご相談したいのです」 「よろしい。そうしましょう」  文字原は海方に言った。 「さて、力松さんとの話は付いた。話を戻そう。君は今朝の事件をどう思うね」 「いや、まだなのです」  と、海方は茫洋とした声で言った。 「まだ、とは?」 「実はこの病院に、まだ佯狂がいるのです」 「なに?」  文字原は気色《けしき》ばんで部屋を見廻した。これ以上は宥《ゆる》さないというように海方を問い詰める。 「その佯狂とは誰だ?」 「ピューリタン——和多本秋代さんです」 「根拠があるのか」 「ございます」  と、海方は当然のように言う。 「あの方も演技が上手でしたな。ひどい潔癖性だという。いつでも消毒薬を持って手放さない。空気中の黴菌が口に入るのが嫌だとか言って、物を喋るにも大きく口を開けません。だが、部屋で独りだけになると、すこぶる怪しいのです。他人が手で結んだ握り飯でも口に入れます」 「それは違うでしょう」  と、笹木が口を挟んだ。 「和多本さんは箸でも食堂のものを使いませんよ。他人が手を触れた食物を口にするとは信じられませんね」 「そうでしょう。だが、昨夜、私の部屋に置いてあった握り飯がなくなっていたのです。それを盗んだのがピュータリンでして、自分の部屋で食べているのを、この小湊君が目撃しています」 「……和多本さんは、君を一番嫌っていたじゃないか」 「この顔が不潔だと思っているんです。勿論、私の顔が不潔に見えるはずはありませんから気が合わないのですな。その私の握り飯を盗み食いしていたのですから、こりゃあ病気でも何でもないのだとしか考えられない。ねえ、先生。強度の不潔恐怖症なら、死ぬほど飢えても、嫌いな奴の食物など盗んで食べたりはしないでしょうね」 「その通りだ」 「ですから、ピューリタンは表面上、潔癖性を装っていただけだ。皮肉ですな。昨夕、食堂で妙な事が起こったとき、ピューリタンは自分の潔癖性を強調するために食事に手を付けなかった。それが尾を引いて、空腹に堪えかねて私の握り飯に手を出し、馬脚を現すはめになったのですから」 「探偵、その握り飯に毒が入っていたと言ったな」  と、百田が言った。  突然の発言で部屋の中がざわめきだした。海方は両腕を拡げ、空を飛んでいるような形をした。 「まあ、お待ちなさい。ものは順繰《じゆんぐ》り。まだ、佯狂の続きがあります」 「……まだ、仮病を使っている者がいると言うのか」  文字原が呆《あき》れたように言った。 「左様。一人一人は後にして、まとめて言ってしまいましょう。早い話、ここにいる患者の全員が佯狂なのです」  そのとき、ドアがノックされた。  辻川がドアを開けると、キチンメードが立っていた。 「主任に来ていただかないと、時間に間に合いません」  困り切った顔で言う。福岡が大声を出した。 「何年この仕事をしているんだ。たまには俺がいなくてもやり通してみろ。今、こっちはそれどころじゃねえんだ」  メードがいなくなると、文字原が眼鏡を掛け直して海方に問い掛けた。 「それが正しいとすると、由由《ゆゆ》しきことです」  海方は両手を組んで突き出た腹の上に置いた。 「院長のお気持はよく判ります。精神科の病棟にいる患者が全部佯狂ではこの病院の立場がない。しかし、事実は事実なのです」 「じゃ、一人ずつ訊こう。双橋君、あなたは仕事だけを生き甲斐にしてきた中堅サラリーマンで、職場で後輩に追い抜かれてから休日神経症になった、と理解していたが」  留美子が言った。 「双橋さんはさっき警察が来ると思って逃げようとしたわ。何か悪いことでもして病院を隠れ家にしたのかしら」  双橋は自分の名が出されてからもじもじしていたが、困惑と恥かしさが入り混った顔をして言った。 「僕は警察に追われるほど大胆な人間じゃありませんよ。ただ、警察に問い詰められると、僕の仮病が露見してしまうと思ったんです」 「警察に知られては困ることなのかね」  と、文字原が訊いた。 「ええ、将来に関わることなんです。実は、僕には愛人がいるんです。……朝からこんな話は止めましょうか」 「いや、すっかり話しなさい」 「……妻も出世の見込みのない僕にとうに愛想をつかしています。でも、僕の方から離婚を言い出すのは、慰謝料やなにかで不利になると思い、病気になる計画を立てたんです。案の定、妻は見舞に来ても僕を励ますでもなく、病状だけ気にして帰って行きます。もう少しです。僕は症状を段段と重くして、回復不可能に思わせようとしていたときなんです」 「昨夜の訪問セールス劇もその含みだったわけですな」  と、海方が言った。 「休日に出勤するのも、実はその愛人と密会するためでしょう」 「ええ。最初は残業で帰りが遅くなる、というのを口実にして彼女と会っていました。彼女は美しく淑《しと》やかで、その反面、僕に対しての情熱は激しく、何より理解が深く、いや……」 「判りますな。きっと、素晴らしい人なのでしょう。しかし、恋愛はふしぎな発想を導くものですな。離婚のため、佯狂になって入院するという」 「じゃ、和多本さんはどんな動機で不潔恐怖症になったのだろう」  と、文字原が言った。 「かのピューリタンは、かなりの資産家だと考えます。彼女の持物を見ますと、バッグはクロコダイル。眼鏡は西ドイツのメツラー。腕時計はさり気ない黒ですが、文字盤はオニキスでダイヤが取り巻いているのをお見落としのないよう。着ている服はセーターからナイティまで、ナルキッスに拘《こだわ》りを持っています」 「そんな資産家なら、主治医がいるはずだ」 「勿論、いますな。多分、その主治医の入れ智慧でしょう。ピューリタンはあの年齢ですから、その資産に欲を出す者が身近にいてもふしぎはない。持てる者の悩み。私たち持てぬ者にはそんな苦労はない。神様、これで割に公平です。わはははは」 「……すると、身辺に危険を感じて病院へ逃避したのかね」 「それは考え過ぎかと思います。遠くにいてその者たちを眺め、静かに考えたくなったものでしょう」 「しかし、現実に和多本さんは毒を与えられている」 「その毒は最初、私が食べるはずだった握り飯の中に混ぜられていたのをお忘れなく」  海方は他人《ひと》事《ごと》のように言ったが、その言葉は全員に再び動揺を与えたようだった。 「すると、犯人に狙われていたのは君だったのか」  と、文字原が言った。 「全くの話、私を殺してどうしようと言うんですかな。とんと、曖昧模糊《あいまいもこ》としている」  いつもの口調だった。本気なのか犯人を油断させるためなのか、進介にも判らない。 「ピューリタンを見ても判りますが、本当の金持ちというのは、目立たぬところに金を掛けるものですな。間違っても紙幣をプリントしたようなシャツは着ません」 「わしのことを言っているな」  と、百田が渋い顔をした。 「そうなのです。いや、総裁。あなたには最後まで欺されましたよ。あの誇大妄想、空想虚言は作り物とは思えなかった。総裁は道を間違えましたな。役者になっていたら名優と尊敬されていたでしょう」 「わしは元元、病人なんかではない。この一室が空いているというので、借りているだけじゃ」 「そういうところが凄い。並の佯狂じゃありませんな」 「お前はさっきからわけのわからんことばかり言っている。もっとも、お前は患者だから仕方がないか」 「そのお顔もなかなか美事だ。だが、探偵の目は確かです。もし、間違っていたら、私はこの窓から飛び降りましょう」 「五階の窓から落ちれば、死ぬぞ」 「それ、それ。とうとう尻尾《しつぽ》を出したじゃないですか」  海方は実に嬉しそうな顔をした。 「ねえ。総裁。佯狂のキーナンバーは〈三〉ですね」  それを聞くと、百田はしばらく海方の顔を見ていたが、溜息と一緒に、つくづく呆れたような顔になり、 「お前は、何という手余し者だ」  と、言った。海方は嬉しそうな表情のまま、 「この探偵がずっと欺されていたのはその出鱈目《でたらめ》さ加減でしてな。一口に出鱈目といいますが、易しいようでこれが相当に難しい仕事だ。特に数字に関してはね。普通の人なら、さあ自分の年齢などをいい加減に言え、と言われたとすると、すぐ言葉が詰まってしまう。この階を二階だと知りながら、今の総裁のように、五階などとすらりとは言えないものなのです。たとえば、総裁、あなたの年は?」 「七十五」  と、百田が言った。海方は笹木の方を見た。 「で、本当の年は?」 「……カルテには七十二とあるはずです」 「そして、総裁はその出鱈目な年を一度口にすると、いつまでも覚えているのですよ。私が欺されるのは無理はない、実はこれには巧妙な種があったのです」  海方は片手を拡げ、指を折りながら、 「総裁の年は本当は七十二なのに七十五。いつでも自分の部屋を二一二号と言いますが実際は二○九号。爵位を八つ持っていると称しながら正しくは五つ。総裁はパーティの夜、力松さんが発砲したモデルガンの音で目を覚まし、四発も銃声がしたと言いましたが、本当は一発だけなのです。そして、ここは二階なのに五階だと言う。さっき外の説明会でも昨日、六月九日を十二日と取り違えました。こう並べ立てると、はじめてその種がお判りでしょう。総裁はいつも出鱈目な数を口にするような振りをして、実際は本当の数に三を加えた数を口にしているのです。すなわち、佯狂のキーナンバーが三なのです」  百田は毒牙を抜かれたコブラみたいな顔になった。 「で、総裁。あなたは何が目的で佯狂などされているのですか」 「……わしゃ、逃げておるのだ」 「ははあ……これ以上、金が集まってはたまらない」 「探偵、お前はずいぶん皮肉だ。そこまで言うなら判っておるだろう。わしゃ、借金でどうにも動きが取れなくなり、この病院へ逃げ込んだのじゃ」 「なるほど、矢張りそうでしたか。すると、借金を忘れようとして、景気のいいことばかり考えていたわけですな」 「半分は破れかぶれであった。最近ではこのまま一生を過ごしたらどんなによかろうと思っているところだ」 「そうでありましょうな。あなたのお年では失礼ながら大いに保険が利用できる。実はこの探偵もそうなのです。さて、そういうわけで、総裁のキーナンバーを発見するのは、容易ではありませんでしたな。しかし、ごく簡単に佯狂だと見分けの付いた人もいたのです」  海方は楽の方を向いた。  楽はそれを待っていたようで、一度口をへの字にしてから口を開いた。 「判ったよ、探偵。今度は僕も佯狂だと言うんだろう」 「偉い人ですな。アダムさんはちゃんと覚悟ができている」 「そう。さっきから皆の話を聞いていたが、とても面白かった。この場になって、白《しら》を通す気はないが、一つだけ気にいらないことがある」 「ははあ……どういう点で?」 「あんたは、簡単に僕の仮病が判ったと言ったね」 「言いました。つまり、それが不満なのですな。もっともです。あなたは普通ではできないことをやって退《の》ける人だ。それだけにして置けばよかったのですよ。ところが、あなたは余計なことをした。この世に神がないことを証明する数式を作り出した」  言われて、楽はがっくりと肩の力を落とした。 「あの式の意味を読んだんだ」 「その通り」 「……信じられない」 「まあ、ここにいると、閑はいくらでもある。そのお陰で、あの式が読めたのです」  海方は内ポケットからメモのような紙片を取り出した。進介が覗くと、見覚えのある式が書かれていた。    - i =42×Z 4−12 「私はこれを十億円で買わされました。十億円にしろ、金を払ったものですから、捨てる気にもなりません。じっと見ていると、妙なことに気付いたのです。この式には余分な記号が入っている。つまり×、乗記号は必要のないものです。数学者はとにかく簡略をモットーにしますから、私などの知識でもおかしいと思う記号を重要な証明の中に入れるのはどう考えてもおかしい」 「……あなたは、大変な人だ」 「いや、大変なのはアダムさんの方ですよ。私はただの読み手だが、あなたはこの式を作り出した。この×記号は不必要なものではなく、重要な意味があると思ったのは、式の最初の-i に気付いたからです。これは普通マイナスアイと読みますが−を小学生みたいに〈引く〉と読んでみた。するとアイを引くから〈逢い引き〉となります」  進介がどんなに閑でも思い付かないような読み方だった。 「すると、次のイコールは〈は〉という助詞としての意味かもしれないと思う。2|+《たす》3|=《は》5の、はです。その後は同じように|42×《しにかける》と読めるでしょう。Zはちょっと難しかったが、前半の句がヒントの役をしまして、Zはアルファベットの最後の文字ですから〈まで〉。数の一を〈はじめ〉と読ませるのと同じ意味です。Zの肩に付けられているのは乗数で、1 |2は半分ですから1 |2 4 という乗数は〈四畳半〉。全部をつなげると〈逢い引きは死にかけるまで四畳半〉なんとも色気のある句になりますな」  玲と辻川が顔を見合わせて、くすくす笑いだした。海方が院長に訊いた。 「よく、ふしぎな外国語を書きまくる人がいるといいますが、院長、そういう人はアダムさんのような書き方はしないものでしょうね」 「勿論、その人達はそういう高度な知的作業はしません。衝動的に書く字は全部でたらめです」 「アダムさんが作為なく書いたものが、たまたま意味のある句として成立してしまったとは?」 「そんなことはまず、絶対に不可能でしょう」  今まで黙っていた笹木が文字原に言った。 「しかし、院長。楽さんは人前で何度も裸になりました。矢張り、普通の人とはどこか違うんじゃないですか」  文字原は黙ったままだった。患者が片端から本性を表わすので、すっかり混乱してしまったようだ。  そのとき、鈴木がぽんと手を叩いた。 「そうだ。やっと思い出しただ。昨夜、長男の嫁に先祖が乗り移りました。その様子を見ていて、誰かに似ていると思ったんだが、やっと気が付いた。このアダムさんと同じでした。嫁も裸であたりを駈け廻っただよ。先生、こりゃきっと憑《つ》き物に違いねえべ」 「いいとき、思い出してくれましたな」  と、海方が言った。 「鈴木一号さんの言う通り。憑き物の原因はハシリドコロです。アダムさんはハシリドコロを食しては気分を高揚させていたのでしょう」 「ハシリドコロ?」  と、笹木が不思議そうに訊く。 「そう。近くの川端に自生しているようです。昔からヤマノイモ科のトコロと間違えて食べる人がいて、中毒すると幻覚を起こして走り廻るというので付けられた名前です」  鈴木は目を丸くした。 「や。ハシリドコロが混じっていた? どうも、不信心の嫁にしてはおかしいと思ったが。この節、目が霞《かす》むときがあって、そう、あのとき俺がトコロと一緒にハシリドコロも採ってきてしまったんだ。嫁には悪いことをしただ」 「そんなに気にしなくてもいいんじゃないかな」  と、楽が言った。 「あの中毒は素晴らしい気分になるから。実は、二年ほど前にもハシリドコロを食べた経験があるんです。一人で山歩きをしたとき、山菜を摘んで茹《ゆ》でておひたしにして食べた。そのとき、ハシリドコロが混じっていたんですね。僕は酒は飲めない。だから、とはいえないかもしれないが、ハシリドコロとは合うんです。気分が高揚して見るもの全てが美しく木が踊り出し石が話し掛けてくる。そっくり幻の世界。そのうち心が自分の身体を抜け出すような気がして、気が付くと素っ裸で地面に寝ていたんですが、それ以来、その味が忘れられなくなりました」 「つまり、そのときと同じ草をこの川辺で見付けたんですな」  と、海方が言った。 「ええ。そうしたら、傍に病院が建っている。僕の頭の中にハシリドコロと病院が結び付いたんです。肝心のハシリドコロは見付かったが、それを食べればどうなるかを知っていますから、家では食べられない。きっと、外に出て裸で駈けたくなりますから、警察に捕まってしまう。といって、誰もいない山の中などでも危い。前のときは幸い、危険な目に遭わなくて済んだのですが、ハシリドコロに酔って飛べる気になって崖から飛び降りたり、川で泳いで溺れたりしないとも限らない」 「なるほど……その点、病院なら安全ですな」 「安全よりも、他にはハシリドコロを食べる場所がない、と思いました。酔っていてもあれは病人だと思うでしょうし、どこかで寝てしまえば誰かが部屋に運んでくれる」 「そりゃ、横着だ」  海方は自分の横着には無頓着だが、他人の横着だけははっきり判るようだ。 「つまり、あなたはハシリドコロと相性が良く、その素晴らしい幻覚体験をしたくて、ここに入院した、というわけですな」 「そうなんです」 「そんなことでこの探偵が納得すると思っているとしたら、甘いですよ」 「…………」 「素っ裸になって医院内を走り廻る理由が、まだあるはずだ」 「……女性がきゃあきゃあ言うのも面白いからです」 「なるほど、それも面白いでしょうが、まだ重要な理由があるはず。それが証拠には、あなたは身に着けた衣服は脱ぐが、絶対に頭に被っている鬘《かつら》を取ったことがない」  楽は慌てて頭を押えた。 「アダムさん、鬘なんですか」  と、辻川がびっくりしたように言った。 「だ、誰がそんなことを……」  うろたえる楽を見て、百田が言った。 「わしがつい探偵に口を滑らした。いけなかったかな」 「いけませんよ。そのためにちゃんと口止め料を渡したでしょう」 「そのことは喋ってから気付いた」 「ひどいですよ。そりゃ……」  海方はにやりと笑った。感じの良くない笑いだった。 「人が観衆の前で裸になるのは、勿論、露出が趣味だという場合も考えられる。その他に、自分は何も【持っていない】のだ、と証明して見せたいときに、裸になることがあります」 「そうだ。時代劇などで掏摸《すり》を捕える。ところが盗品は仲間の手に渡っているものだから、くるくると裸になって、さあどうしてくれる、と凄む奴だな」  と、百田が言った。 「楽さんは別に凄みはしませんがね。かのパーティでも身体に遊び道具がないことを証明するため同じ手を使いましたでしょう。アダムさんは裸になって、身体に何も持っていないのを病院中に示すわけです。ちょうどそのとき、盗難が起こったとしても、アダムさんだけはその嫌疑から逃れる意味でね。しかし、裏がある。アダムさんの鬘はそのままだ。鬘の下に小さな物なら隠すことができましょう」 「……その秘密を知られたから、アダムさんは珊瑚ちゃんの口を封じたんだな」  楽が大きく手を振った。 「そ、そんな大それたことを……」  海方が両手を腹の上に組み直した。 「総裁、それは考え過ぎです。もしそうなら、同じようにその秘密を知っているあなたも危い」 「じゃ、アダムさんは何を盗んだんだ」  楽は口をつぐんだままだった。 「ところで、鈴木さん」  海方は鈴木の顔を見て、自分の頭を指差した。 「もう一つ思い出してもらいたいことがあるんですがね」 「……昔のことでないとだめだ」 「結構。昔のことです。戦時中ですが、あなたはこの病院に出入りしていたそうですね」 「そう。ある研究の手助けをしていた」 「もしかして、その研究員の中に、楽という名の研究員がいませんでしたか」 「若い研究員が三十人ほどいたが、まだ全部の名を覚えている。その中に楽というような研究員はいなかった」  鈴木は言下にそう答えた。海方は少し斜眼にして鈴木を見た。 「そうですか。楽というのは珍しい名だから、忘れるようなことはないでしょうな」 「勿論だ。医者にはいないが、楽という兵隊なら、いただ」 「……なるほど。その兵隊は何をしていましたね」 「ここで、防空壕を掘っていた。入隊したばかりの二等兵で、上官にどやされながら働いていた」 「その楽二等兵と、ここにいる楽さんはどこか似ていませんかね」 「……兵隊は皆、坊主だったからなあ。ちょっと鬘を取ってみないかね」  全員の視線が楽に集まった。楽は薄笑いを浮べ、不貞腐《ふてくさ》れたように長髪の鬘を取り去った。鬘がなくなると、人相が変わった。意外と大きな頭で、顔の鋭さが禿に吸い取られるように穏やかになった。 「うん、これなら楽二等兵に瓜二つだ」  と、鈴木は満足そうに言った。 「あんたはあの人の子供だべか」  楽は額の縦皺を深くしたが、髪がなくなったためいつもの凄みはない。 「そう。ここで働いていた、あれは親父です。僕は親父から聞いて、どうしても手に入れたかった」 「何を、かね」 「リザドトキシンの現物。できたら、その分子構造式も」  双橋が気味悪そうに言った。 「何ですか、それは。トキシンというと、毒ですか」  鈴木が得意そうに説明する。 「そう。人を殺す猛毒。戦時中、軍の命令で文字原病院には毒兵器の研究所が作られていただ。そこで研究していたのが、ベットウトカゲにある毒。俺は毎日のようにベットウトカゲを捕えては大先生のところへ運んだ。そのころ、院長はまだ大学生。そうだったべ、先生」  見ると、文字原は蒼白だった。顔から粒粒の汗が吹き出している。視線が安定せず指が震え、少し前までとは別人のようだ。それでも、強いて背筋を伸ばそうとしていたが、 「リザドはいかん」  それだけ言うと、両手を顔に当て、身体を丸くしてしまった。 「先生、どうかしましたべか」  と、鈴木が声を掛けた。全員が浮き腰になるのを見て、留美子が落着いた声で言った。 「大丈夫です。わたしが心得ています」  留美子は文字原の身体を玲に支えさせ、顔を寄せた。 「先生、部屋へ戻りましょう」  文字原は力なく首を振る。 「いや、構わんから、ここで」  留美子は部屋から出て行き、すぐ注射器を持って来た。上着を脱がせ、上膊に注射針を打つ。それだけだった。文字原は渡された脱脂綿で注射の痕を押さえ、 「リザドはいかん。使うと、こうなる」  と、言った。  十章 フルオレスセインナトリウム  薬の効果は奇跡と思うほど早かった。  文字原の顔にみるみる血色が甦《よみがえ》り、目が生き生きと輝きを帯びてきた。気分も晴晴とするらしく、言葉に張りが戻り、少しの澱《よど》みもない。 「ご覧になったでしょう。リザドトキシンは実に恐ろしい薬だ。今、鈴木さんが話した通り、陸軍技術研究所化学研究部の命令で毒物の研究がなされていたのです。父は昔から漢方で使われている|蛤※《こうかい》に目を付け、その毒成分を研究員たちと精製したのです。|蛤※《こうかい》は〈本草綱目〉によると、蜥蜴《とかげ》の類で長さ四、五寸、首は蝦蟇《がま》に似て、雄は蛤と鳴き雌は|※《かい》と鳴く、その尾は肺病の薬となる、と。戦前、このあたりに多くいたベットウトカゲがこの|蛤※《こうかい》なのです。毒は主に尾にあって、動物の体内に入るとすぐに神経伝達の遮断が起こり、骨格筋が働かなくなる。次に心臓の筋肉が麻痺して死んでしまうのです。その作用は鋭敏で早く、一撃で相手を倒すという動物毒の特徴をよく示しています。しかし、致死量に至らないときには心臓までは届かず、骨格筋は自然と回復し、後遺症を残さない。動物は自分が逃れる間だけ、相手が動かなければいいのです」 「なるほど……使い方によって毒兵器としては、理想的なようですな」  と、海方が言った。 「そう。父の研究はかなり進んでいました。ベットウトカゲからいろいろな成分を分離し、その中の毒成分をリザドトキシンと名付け、この成分、ステロイドの分子構造式、そしてその誘導体はテッポウユリの一種、マレウユリの根にあることも突き止めました」 「すると、リザドトキシンの大量生産ができたのですね」 「そう。一匹の蜥蜴から採れる毒はごく微量ですから、それに較べれば植物の成分にあるステロイド誘導体を利用すれば安価に毒が手に入る。理論的には大量生産も可能でしたが、その研究の途中で敗戦となり、即時、指令が降りて研究所は中止、後日、証拠となる全てを処分してしまいました」 「つまり、全て、ではなかったのですな」 「……そうです。精製したリザドトキシンの一部は残され、ここに保管されています」 「かの恐るべきボツリヌストキシンも最近では薬として使われている。リザドトキシンも、使い方では有効なのでしょう」 「ええ、本草で肺病の薬とする、とあるように」 「昔ですから、肺結核に直接効果を及ぼすとは考えられない。一種の体質強壮剤として薬効があったのでしょう。つまり、房中の春薬としてですな」  文字原はびっくりしたように目を丸くした。 「どうして、それが判りました」 「種を明かすと、昨夜、小湊君が防空壕へ忍び込み〈壮腎散〉というラベルを貼った薬を見付けたのですよ。壮腎散、実はリザドトキシンなのでしょう」 「……そこまで探偵の手が伸びていたのですか。少しも知らなかった。そうです、その薬名は父の考えでした。万一、アメリカの進駐軍に見付けられたとき、毒兵器を研究していたとは言えません。それでトキシンという字は使えなかった。〈黄素妙論〉に載っている、|蛤※《こうかい》を処方とした〈壮腎丹〉によった薬名なのです」 「昔、精力の源は腎臓だと思われていましたから、その壮腎丹も春薬だと考えますが」 「ええ。気液衰え陰血|渇《か》る者、宜《よろ》しく之《これ》を用うべし、と妙論にあります。今考えると、昔の人は平気で恐ろしい薬を使います。|蛤※《こうかい》の他にも、阿片《あへん》、附子《ぶす》、硫黄《いおう》、蟾酥《せんそ》などが処方されることがあって、塗り薬を誤って飲み、死亡した例もしばしば発生しています」 「なるほど、昔も今も男女のこととなると命懸けですな。その薬効はきっと素晴らしいのでしょう。だが、当時、副作用としての依存性は判っていなかった」 「いや、当時、覚醒剤の禁断症状の恐ろしさは注意されるようになっていましたから、父は充分気を付けていました。しかし、研究員や兵隊の中にそれを秘かに持ち出す者がいて、春情を煽《あお》る恍惚感が天国に行ったようだと言う。若い医者も好奇心から服用してみる。私も若かった。深い考えもなく一度だけと思ったのが間違い。薬を手放せなくなってしまいました。だから、リザドトキシンはいけない。危険だ。心と身体が薬の虜《とりこ》にされてしまう」 「しかし、院長。その恐ろしさを体験しているのに、今、どうして?」 「これは、フラッシュバック現象だと思う」 「……フラッシュバック?」 「一度、覚醒剤の中毒になると、十年、二十年後でも何かが引き金になり、薬物を使わなくとも幻覚や妄想が起こることがある。すると、その苦痛を鎮めようとして、再び薬に手を出す」 「院長の場合、その引き金は何でしたか」 「……妻の、発病です」  文字原はそう言って眼鏡を外《はず》して目に手を当てた。薬のために感情の起伏が激しくなっているのだ。 「妻は昔私がその依存性で苦しんでいたとき、献身的に付き添ってくれた看護婦だったのです。私は彼女がいなかったら、あのまま、立ち直れなかったとさえ思う。どちらかというと目立たない、静かで控え目な性格でしたが、私の中毒症状には信じられない強さを見せ付けた。私は勿論、彼女も地獄を見たのです。彼女の力を借りて薬を断ち切ったとき、私は彼女なしではいられなくなっていた」  文字原は横にいる留美子を見てから話を続けた。 「その妻が四年前、四十の後半で、分裂症を発症したのです。その原因は判りません。内にものを秘める性格で、私の前で全てを曝《さら》け出すことがなかったからではないかと思う。勿論、尽せるだけの治療を続けたのですが、症状は悪化をたどるばかり……」  文字原は言葉を詰まらせる。海方が大きくうなずいて、 「判りますよ。内の女房は、今のところ箸にも棒にも掛からない女ですが、病いに罹《かか》ればきっと同じだと思います。ところで、やっと問題の人物が現れましたな。力松さんに言わせれば狂気の天才、美島百合子さん。ぜひ奥さんの話が聞きたいのです」 「それは……」 「というのは、理由のあることで、四日ほど前のパーティの夜、私の飲み物の中へ妙な薬を投げ込んだ者がいるのです」 「すると、探偵が狙われたのは、昨夜だけじゃないのか」  と、百田が言った。 「はあ。もっとも、そのときは毒じゃなかった。昨日も総裁の魔法瓶の中に入れられ昨夕は食事での一件。あれと同じPTCとかいう薬らしいんです。そうちょいちょい毒が使われたら、命がいくつあっても足りませんな。その、私の目を盗んで薬をミネラルウオーターの瓶の中に入れた手口が美事で、その夜はちょうど、シェフたちと一緒に」  海方は壺を振る手付きをした。だが、極めてあいまいな仕種《しぐさ》だったから、それに加わった人たちしか判らなかっただろう。 「と、いうようなことをしていまして、そのときだけに限って話を進めると、その夜ミネラルウオーターの瓶に薬を投げ込んだ者は、二○二号室にいる人間、としか考えられないのです」 「……つまり、百合子が怪しい、と言うのですか」  と、文字原が言った。 「百合子さん、だとは断言できません。見たわけではないのですから。最初に、院長は精神科病棟の全員に、この部屋へ集まるように言われましたな」 「その通りです」 「すると、当然、百合子さんにも出て来てもらわないと、片手落ちだと思いますが」 「いや、妻はここには来られない」 「……それほど、重病なのですか」  文字原の顔が歪んだ。海方が追い討ちを掛けるように言った。 「私が百合子さんに拘《こだわ》るのは、もう一つの理由がある。というのは、毒を飲まされた珊瑚ちゃんは、モデルガンを持っていたでしょう」 「……パジャマのポケットにそういう物が入っていました」 「なぜ、そんな物を大切に持っていたのでしょう。あのモデルガンは結構重いし、ポケットに入れていたのでは痩せた珊瑚ちゃんが寝やすいはずはありません。私はこれは、ある合図かと思っているのです」 「……合図?」 「もし、珊瑚ちゃんが自分が毒を飲まされたのに気付いた、と仮定しましょう。リザドトキシンならまず声が出なくなります。変だ、と思ったときはもう人に伝えられない状態になっている。それで、何とかして犯人の名を伝えたいと思い、あたりを見るとナイトテーブルの上に、そのモデルガンが置いてあったのです。珊瑚ちゃんは痺《しび》れはじめている手を動かし、そのモデルガンを取って自分のポケットに入れる」 「モデルガンが犯人の名を?」 「そう。単純な連想です。モデルガン——鉄砲——テッポウユリ——百合子」 「君は百合子が珊瑚ちゃんに毒を飲ませた、と言うのか」 「そうは言いません。ただ、話が聞きたいと思いましてな」 「……百合子の話を聞くのは、不可能です」 「どうして?」  文字原は苦しそうな顔をした。 「妻は……昨年の暮、死亡しました」  海方は最初から二○二号室の患者に深い関心を持っていた。特別室に入り、普通の患者とは違う扱いを受けている。それが、文字原の妻、百合子だと判って、その扱いは当然とは思うものの、進介もその患者に疑いを捨てることはできなかった。  だが、その百合子はすでに昨年の暮に、死亡したと言う。  海方もその言葉に衝撃を受けたようだった。 「すると、現在、二○二号には誰もいないのですか」 「いません。疑うなら部屋を調べればいいでしょう」 「いや……疑うわけではありませんが、あの部屋にはよく花束などが届けられ、食事など運ばれるところを一度ならず見ております」 「あれは、亡くなった妻を供養する心なのです」 「奥さんの死因は、なんだったのですか」  文字原は少し沈黙したが、すぐ、はっきりした言葉になった。 「妻の症状は日に日に悪くなるばかり。私はその末期をとても正視することができず、いろいろ悩み抜いた上で……」 「院長、止して下さい」  と、いきなり、文字原の横にいた留美子が叫んだ。 「その話はよくないわ。部屋に戻りましょう」  文字原は留美子の手を振り払った。 「いや、全部言わしてほしい。これは、私自身の治療でもあるのだ」  留美子は絶望的な表情になった。 「妻はすでに自分の意識がなくなっていましたが、ときとして非常な苦しみにのた打ち廻ることがあった。どうせ回復のないものならせめてその苦痛から助け、天国を見せながら死なせたいと思い……」  留美子に強く言ったものの、文字原は言葉が続かなくなった。 「リザドトキシンを投与したのですね」  と、海方がはっきりと言った。 「そう。前から頭にあったことを実行したのです」 「奥さんに薬を飲ませたのは、わたしよ」  と、留美子が言った。 「わたしの、この手なの。その気になれば、薬を捨てることだってできたんです」 「その通りだ。しかし、そうはしなかった。というのは……留美子、君の口から言ってごらん」  表情はほとんど泣いていた。だが、一度決心すると、捨て身になったようだ。進介はその表情を美しいと思った。 「院長から打ち明けられて、わたしはとてもその薬が気になり——勿論、自分の身体で試すことはできませんが、わずかな苦味のあることは聞いて知っていました。そして、しばらくしてからその日が来ました。奥さんの薬に、それらしい散薬が混っているのに気付き、そっと味を確かめましたが、例の苦味は感じません。わたしは疑いもなくそれを奥さんに飲ませたのです。ところが、その直後、奥さんの心臓が停止しました」 「それが、リザドトキシンだったのですね」  と、海方が言った。 「なぜ、苦味がしなかったのですか」 「それまで、強く抑え続けてきたわたしの心がそうさせたのです。わたしは奥さんの死を願っていました。それが、舌の味覚を取り去ったのです」 「ということは、あなたは院長と?」 「はい……ここに来た当初から」  それを聞くと、海方は目をしょぼつかせた。相当がっかりしたようだった。 「いや、そうでしたか。この探偵、男女の機微には疎《うと》いとみえて、少しも気付きませんでした」 「俺も知らなかった」  と、鈴木は頬を脹《ふく》らませている。病院|通《つう》を自認する鈴木としては、よほど面白くないのだろう。 「院長が若いころ覚醒剤中毒だったことや、奥さんが亡くなったこともね」 「そりゃ、無理もないでしょう」  と、海方が言った。 「病院の跡取りが薬の中毒患者では困りますから、先代の大先生は秘密に治療を続けたのでしょう。同じ意味で、精神科の先生の奥さんが分裂病でも、人には知られたくありません」 「それにしても、水臭い。知っていたら出来る限りのことはしただ。ベットウトカゲを獲って来いと言われれば草の根を分けてでも探して来る。そうだ、赤荼羅《あかだら》会の本部で水垢離《みずごり》したりお百度を踏んだら、きっと奥さんはよくなっていただ」  鈴木は鼻を詰まらせる。 「今日のことは、秘密なのですよ」  と、海方が言った。 「判っているよ。一晩寝れば、昨日のことなどあらかた忘れているから、秘密を守るにゃ一番信用の置ける男だ」  海方は改めて文字原の方を向いた。 「私がこんなことを言うのは立場が逆のようだが、院長、あなたは強迫感を持っておいでのようです」 「そう。自分でも承知しています。しかし、自分の心はどうすることもできない。今思うと、妻を死なせたのは間違いだった。愚かにも、妻が死んでから、はじめて気付いたのです。しかし、直接に手を下した留美子の方は、もっとひどいショックを受けてしまいました」 「それも判るような気がします。マドンナは百合子さんの死を認めないのでしょう」  文字原が肯定する前に、留美子は言った。 「奥さんは死んでなんかいません。毎日、きちんと三度の食事を運んでいるじゃありませんか。奥さんの好きな花を届けたり、昨夜も——」  留美子はふいと口をつぐみ、 「頭が、痛いわ」  と、額を押えて顔を伏せた。妄想と現実とが葛藤を起こしたのだ。  文字原は留美子の背に手を置いた。 「誰も君のことを責めたりなんかしちゃいない。いつも言っているだろう。百合子だって感謝しているはずだ。さあ、もう大丈夫。頭痛は治るね」  留美子は子供のようにこっくりした。  海方は留美子に言った。 「あなたはリザドトキシンの苦味が判らなかったのは自分の心のためだと自分を責めていますが、それは大間違いですぞ。なぜなら、昨夕、食堂であなたはPTCの苦味が判らなかったではありませんか。マドンナ、あなたは生まれながらの味盲なのです。最初からPTCに似たリザドトキシンの苦味が判らないので百合子さんの死とも無関係、マドンナに責任は皆無です」  文字原はよく言ってくれたというように海方を見た。海方は続ける。 「マドンナの気持で、二○二号室は百合子さんが生きているときのままにしてあるのですね」 「そう。私は別な意味で。百合子への手向《たむ》けの心なのです。ばかばかしいと思うでしょうが、せめてもの償いとして……」 「いや、ばかばかしいなどとはとんでもないこと。死んだ人を思うとき、生前のとおりの習慣を続けるのは、誰しもが考えることです。が、その後が少し怪しい。あなたは敗戦の日からそのままになっていたリザドトキシンを使ってからというもの、昔から【そのままになっているもの】に対して強迫観念を持つようになったのですね」 「……どうして、それを?」  文字原はびっくりしたようだった。海方が相手を驚かせたのはこれで何度だろう。進介はその何度かは巧妙な誘導尋問が使われているのが判るのだが、はじめての人なら奇跡と思うだろう。 「朝晩、鐘が鳴るようになったからです。この病院の屋根に、鐘楼が作られているからには、創立当初、毎日鐘が撞《つ》かれていたはずです」 「その通りだ」  と、鈴木が言った。 「はじめて鐘の音を聞いたときには、こんな爽やかな清清《すがすが》しい音がこの世にあったかと思いましたよ。それが、いつの間にか撞かれなくなって、忘れていたころあの音がするようになったでしょう。いや、実に懐しかった」 「院長はリザドトキシンを使ってから、同じように、まだ機能を持っているものをそのままにして置くことができなかった。同じ意味で、死蔵されていた百合子さんの絵で、食堂の壁面が飾られるようになったのです」  文字原は言った。 「その心理を自己分析すると、こうだと思います。私の醒めた心が、二○二号室をいつまでもあのままにして置くのはよくない、と囁《ささや》いているのです。早く部屋の中を片付けて、病院としての役目を与えなければならない、と」  進介は昨夜、二○二号室を覗き込んだとき、いないはずの百合子に、留美子が声を掛けているのを聞いた。  ——もう近いうち、退院だそうですよ。さっき、院長先生がそうおっしゃっていました……。  つまり、百合子が退院するという意味は、二○二号室を空けるということなのだ。  進介は言った。 「でも、近いうち院長は部屋を整理するつもりなのですね」  海方がおやっというような顔で進介を見た。  そのとき、進介の頭に奇怪な想念が起こった。 「小湊君、何かふしぎなことを考えていますね」  と、海方が言った。 「妙なもので一緒の仕事をしていますと、似たような考えが起こるものです。小湊君が思い付いたのは多分、こうでしょう。院長先生は二○二号室の始末を付けてから、愛人のままにはしておけないので、マドンナと結婚する。まず目出度《めでた》いが、次に昔のままになっている防空壕を改造して役に立てなければならない。その次が問題で、病院には長く入院したままになっている患者が数多くいる。外科の患者などは快復が早いから問題はないが、精神科の患者はどうもはかばかしい治癒が見られない。それでは、というので快復の見込みのない患者全てにリザドトキシンを与えてしまう」  全員、声を発する者がなかった。 「強迫感に幻覚妄想が加わり〈全員を殺せ〉という天の声が聞こえたりすると、行き着くところまで行ってしまうかもしれませんよ。とすると、前代未聞の大事件。だが、ご安心。ここにいる皆さんは全員佯狂だということが判りましたからね」 「不思議な病院だ」  と、力松が言った。 「患者の方が皆正常なのに、院長や婦長がちょっと、おかしい」  海方は自分の腹を撫でながら、 「いや、おかしいのは、院長とマドンナだけではないのです」 「……冗談じゃない。これ以上驚かさないで下さいよ」 「いや、それが本当だから仕方がない。そうでしょう、花住玲さん」  言われて、花住は大きい目をぱっちりと開いた。 「わたし、何も隠してなんかいないわよ」 「いや、そういう意味ではないんです。あなたの場合ですと、その切っ掛けは恋でしょう。最近、失恋しませんでしたか」 「…………」 「場所は教会。新婦はあなたと新郎の間を知らないので結婚式にあなたを招待する。幸せそうな二人を目の前にして、あなたは強い衝撃を受ける。その間、教会の鐘が鳴っています。あなたは祝福の鐘の音に厭悪《えんお》を感じ、以来、鐘の音が耳に入っても聞こえないのです」 「知らなかった……探偵の言う通りよ」  玲は眸《ひとみ》をくるりと動かした。 「鐘楼の鐘が鳴っているというのに、私の耳には全く聞こえないの。他の音はちゃんと聞こえているのに」 「そう。鐘の音だって、ちゃんと聞こえているのです。しかし、それは嫌な思い出につながるので、無意識の心が聞くことを拒否していますね。それで、聞こえているのに聞こえないという特別の聴覚になった。そうでしょうね、笹木先生」  笹木は不意を衝《つ》かれたようにびくりとして、 「ここから逃げたい気持ですよ。この探偵はどんな危いことを言い出すか判らない」 「そんな危険な話ではないのですよ。先生は実に珍しいお医者さんだ、と言いたかっただけです」 「…………」 「昨夕、食堂で先生も苦い薬物を飲まされましたね。玲さんはすぐその味がPTCらしいという意見を述べたのを覚えています。しかし、笹木先生はきょとんとした顔をしていましたでしょう。院長先生。そのPTCというのはそんなに難しい薬なのですか」 「いや、フェニルチオカルバミド。味盲を検査する薬です」 「味盲というと、味の判らない人ですか」 「いや、正確にはPTCの強い苦味を感じない人を味盲と言います。味盲と言っても普通の生活には少しも差し障《さわ》りはない。味盲の人は白人で三○パーセント、黒人では一○パーセント、東洋人で五パーセントから一○パーセントあるとされている。今は中学校で教えているそうですがね」 「中学校でも、ね」 「味盲はメンデルの単純性遺伝をするので、実際に生徒に味わせる教材にしているようです」 「なるほど、いや、よく判りました。私もどこかで習いましたが、もうすっかり忘れていました。私の場合、確か親子識別をするときPTCを使うのだと教えられましたが、多分、そのときは半分眠っていたのでしょう。それはともかく、中学で学ぶような薬を、本職の笹木先生が知らないのはおかしい」 「……僕も習ったとき眠っていたのかな」  と、笹木が言った。 「いや、PTCだけではないのですよ。先生は今朝さるところでβエンドルフィンという薬にも答えられなかったし、ここでは五大猛毒の一つも思い出せませんでしたね」 「……そういう知識もないのに、医者はおかしいと言うのかね」 「先生は趣味で医者になったのと違いますか。医者はプライドの強い人がいるので、病院へ就業するとき医師の免状など一一提出しないと聞いていますが」  進介は「趣味」という言葉が耳に入ったとき、桃子の顔を見た。想念はいつも予期しないところに泛《うか》びあがる。 「先生は昨夜、早崎さんにリザドトキシンを与えましたね」  と、進介は言った。笹木は顔を蒼白にさせた。 「僕がなんで珊瑚ちゃんを殺さなきゃならない」 「いや……お母さんの方に、ですよ」  笹木は作ったような笑い方をした。 「それも、医師の立場としておかしい、というわけですか。そう、僕は院長がいつも傍に置いてある薬物に興味を持って、そっと院長の行為を観察していたことは確かです」 「そして、リザドトキシンを持ち出した?」 「それも、認めましょう。ただし、人殺しがしたいわけじゃない。女性との話を円滑にするお呪《まじな》いとしてね」  進介は桃子の顔が上気するのが判った。目が合うと、桃子は恨めしそうな顔をしてうつむいてしまった。それが薬物の作用にせよ、自分の行為を思うと堪えられないのだ。進介はそれ以上笹木の行為は異常だと追及することができなくなった。  海方が言った。 「また、リザドトキシンに話が戻りましたな。笹木先生は院長先生のところからその薬を持ち出したという。では、アダムさんはどこから手に入れたのですか」 「地下の防空壕の隠し戸棚から。あれは僕の親父が作ったんだそうです」 「防空壕の戸にはいつも鍵が掛けてあるはずだが」  と、文字原が言った。 「でも、反対側に逃げ路があるでしょう。行ってみると、親父の話とは違い、土砂崩れしていて、その点、苦労しましたがね。そのときも裸で」 「君はその薬を試したのか」 「いや、まだ。親父から聞いて薬には依存性があるのを薄薄知っていたんです。親父は神経が図太いというか、割に苦しまなかったみたいでした。でも、よかった。僕が試す前に院長の様子を見て。こんなに恐ろしい薬だとは思わなかった」  楽は鬘《かつら》を取って裏返した。白い粉がいくつかの透明の小さなビニール袋に入れられて、テープで止められていた。楽はテープを外し、ビニール袋を文字原に渡した。 「これ、お返ししますよ。僕はそういう苦しみは嫌いなんです」  海方はしげしげとその白い粉を覗き込んだ。 「なるほど、それがリザドトキシンですか。なんと大自然が作り出す毒は素晴らしいものですな。今の院長のお話ですと、動物の毒は瞬時に相手を倒すが多くは死に至らない。毒は自然に消えて後遺症を残さない。それを大量に精製するから問題が起こる。悪いのは人間でしょう。植物の毒も多くは薬用になる。かの恐るべきボツリヌストキシンでさえも病気の治療に有効だといいます。始末におえないのが人間が作りだしている無数の毒物。これは、絶対に薬用にならない、ばかりでなく、いくら少量でも体内に蓄積して癌を発生させたり内臓を破壊してしまう。今や人の死亡原因の一位が癌ですから、毒ヘビや毒キノコが束になって掛かって来ても敵《かな》わない。殺虫剤や除草剤の農薬、カドミウムやダイオキシン、アスベストなどの工業毒、合成洗剤、着色甘味料、防腐剤、飼料添加物、放射能汚染食料品、炭酸ガスやフロンになると地球全体を破壊しかねないといいますな。現在は正に人間が曾《かつ》て経験したことのない毒の時代に突入しているのです」  海方は独り言のようにもそもそ言っていた。なにか考えをまとめているときの癖なのだ。そのうち、海方はふいと楽の方を見て、 「あなたはもしかして、リザドトキシンを誰かに渡しましたか」  と、訊いた。 「人にやったことは一度もありません。でも一袋だけなくしたことはあります」  海方は組み合わせた手の指をぼきっと音をさせた。 「この病院の中で?」 「ええ」 「落としたのですか」 「いや、鬘の中ですから、落としたとは考えられません」 「すると……誰かに盗《と》られた?」 「そう思います」 「あなたが鬘をしているのを知っている人はそう多くはないでしょう」 「ええ、総裁と珊瑚ちゃんだけです」 「薬を盗んだのはそのうちの誰でしょう」 「珊瑚ちゃんだと思います。僕は珊瑚ちゃんに鬘をむしり取られたことがあるんです」 「……盗られて、黙っていたんですか」 「いいえ。かなり強く問い詰めたんですが、珊瑚ちゃんはとうとう白状しませんでした」 「それで?」 「仕方がないから、あれは恐ろしい毒だということをよく説明して、もし、どこかに見付かったら僕に返すように言い含めました。疑わしくても珊瑚ちゃんを裸にはできず、誰かに言ったら僕の盗みがばれてしまうと思い、そうするしかなかったんです」 「そんなときのために、ここに探偵がいるのですよ」 「……失礼ですが、探偵をばかにしていました」 「その後、珊瑚ちゃんは薬を返しに来ましたか」 「いいえ」 「それで、大事になったのです。すると、珊瑚ちゃんはその薬の毒性を知っていたんですね」 「そうです」  海方の指が前よりも大きな音を立てた。海方は全員を見廻し、 「皆さん、やっと今度の事件の犯人が判りました。これから、安心して食事ができます。その犯人は、早崎珊瑚ちゃんです」  と、はっきりと言った。  なにか、感じが違う、と進介は思った。  これまでの海方は、推断に裏付けがあって、疑点を受け入れる余地が全くなかったが、この犯人の指摘は当てずっぽうに近い言い方だった。  進介の不安を百田が代弁した。 「探偵、そりゃ、ちと短絡ではないかな」 「ほう……なぜでしょう」 「珊瑚ちゃんが毒を持っていたから犯人、では説明不足のように思う」 「はあ、さっきから喋り続けたもので、顎がだるくもあり、腹もひだるくて、つい先を急ぎました」 「珊瑚ちゃんが犯人、ということは、自殺だったという意味か」 「違います。もし、珊瑚ちゃんが自殺だったとすると、この海方にも毒が盛られそうになったのですから、心中、となります。ロマンチックですな」 「……心中なものか。ばか臭い」 「ほれ、そうでしょう。私もマドンナとならともかく、あんな娘っ子と心中はご免被《こうむ》りたいですな。ところで、院長」  海方は文字原の方を向いた。 「珊瑚ちゃんは、確か心身の不安定に加え、ひどい拒食症でしたね」 「そう。それも、食物の味が判らなくなるほどで病院へ来ました」 「とすると、味盲ですか」 「いや。味盲ではありません。味の感覚は正常ですが、心が拒否するのです」 「すると、PTCで味覚を試されたのですね」 「そう。珊瑚ちゃんの心が油断しているとき、PTC溶液を飲ませたところ、激しい苦味の反応を示しました」 「なるほど、花住さんの場合は聴覚でしたが、人は味覚でもそうなるときがあるのですね」 「そう、視覚でも記憶でも、心がそれを拒否すると、ものが見えなくなったり、嫌なことを思い出せなくなったりする人がいます」 「で、その原因は判りましたか」 「私の分析では、両親の離婚と父親の結婚が珊瑚ちゃんの味覚喪失を引き起こしたものと思います」 「ははあ……つまり、珊瑚ちゃんは、父親が好きだった。それを、桃子さんに横取りされた。それが、絶対に容認できず、拒食として外に現れたのですね」 「ええ、最初は桃子さんが作った食物を拒絶したのです」 「私が見たところでは、珊瑚ちゃんの症状が好転しているとは思えない」 「そうなのです。早崎さんは献身的に看護しているのです。珊瑚ちゃんにそれを少しでも感謝する心持が起これば問題はないのですが、珊瑚ちゃんの心はそれ以上に堅固でした」 「昨日、珊瑚ちゃんが、走って来る車の前に桃子さんを後ろから突き飛ばした。それを、小湊君が目撃しています」  桃子の顔色が変わった。 「そんな……恐ろしい」 「しかし、事実なのでしょう」 「……はい」  海方は全員を見渡した。 「いかがです。珊瑚ちゃんは愛する父親を奪った桃子さんを亡き者にしようと考えたのです。このまま自分の症状が回復しなければ、生命にも関わると感じたのです。珊瑚ちゃんは自己防衛しなければなりませんでした」  桃子は放心した表情になった。  進介はそれを見て、珊瑚は別の強い憎悪があったに違いないと思った。桃子と笹木との関係を知っていたのだ。その場を目撃したとすると、事態はより深刻だ。憎悪が激しい殺意に成長してもふしぎはない。  百田が海方に訊いた。 「すると、探偵を毒殺しようとしたのも珊瑚ちゃんなのか」 「そうなのですよ。そればかりではない。最近、手当たりしだいに、大勢にPTCを飲ませた、あれも珊瑚ちゃんの仕業だったのですよ」 「あれは……目が青白く光る幽霊の悪さではなかったのか」 「ははあ……目の光る幽霊が出没する噂がありましたな。実はこの探偵、その正体もちゃんと見極めているのです」 「……それは、何だ?」 「その正体は、総裁、あなたです」 「俺が……幽霊だと?」 「その通り。いや、総裁だけではないようで、アダムさんなどはハシリドコロを食べると目の光が増しますから、そそっかしい人なら暗がりにいるアダムさんを見て、幽霊だと勘違いする人がいるかもしれません」 「俺はハシリドコロなど食ったことはないぞ」 「その代わり、糖尿病の気がおありでしょう。ときどき目が霞むそうで、眼科で検査を受けたことがありましょう」 「うん……いつか、糖尿病性網膜症とかいう検査を受けた」 「問題はそのときの試薬なのです。確か蛍光試薬だそうですね。何と言いましたか。勿論、笹木先生はご存知ないでしょうな」  笹木は口を歪めただけだった。文字原が答えた。 「フルオレスセインナトリウム。これは蛍光試薬で、点眼してブラックライトを当て、眼の障害部を診断する薬です」 「なるほど、フルオレスセインナトリウムですか。蛍光試薬ですから、検査を受けた後でも、目が光って見えましょうな」 「そうです。蛍光灯が当たって、暗い場所にいれば」  海方は百田に言った。 「お聞きの通りです。総裁、あなたもその検査を受けました。勿論、検査を受けたのはあなた一人じゃない。この病院で同じ蛍光試薬を点眼された人は何人かいるでしょう。そのうちの誰かが、たまたま検査を受けた直後に暗がりにいたとすると、青白く目が光りますから、気の弱い人は幽霊だと早合点《はやがてん》するに違いない。幽霊の正体はこの蛍光試薬なのです」  昨夜、防空壕で進介が見た目の光る男は、その検査を受けた文字原に違いない。昨日、進介が診察を受けたとき、文字原は糖尿の検査を受けると言っていたが、同じ蛍光試薬が使われたのだ。 「私がPTCを最初に飲まされたのが、四日前の夜で、参加者なら覚えていましょうな。私とシェフとアダムさんと客分の四人、二○一号室に忍び込んでギャンブルパーティを開いていた夜です。ところがその途中でいろいろな邪魔が飛び込んで来た。最初が珊瑚ちゃんで、今思うと誰かにPTCを飲ませようとしてずっと隙《すき》を窺《うかが》っていたに違いない。その次が力松さんで、力松さんは多分、病院内で一人でも多く起きている者がいると自分の探検の邪魔になるというところからパーティを潰すのが目的だったんでしょう」  力松はうなずいた。 「そう。大騒ぎして看護婦さんを呼び寄せようとしたんです」 「しかし、派手でしたな。最初は西部劇の歌で、次にはモデルガンをぶっ放した。これはいけないというので、鉄火場慣れのしているシェフが、素早く明りを消してテーブルの上の玩具を片付ける。誰かが非常ベルを鳴らす。力松さんの狙い通り、花住嬢とマドンナが二○一号室にやって来て、パーティはお終《しま》い。珊瑚ちゃんは力松さんからモデルガンをせびって、花住嬢に連れられて部屋に戻る。ここで、ちと気になる点があります。この騒ぎで総裁も寝ていられずに廊下へ出て来ましたよ。人嫌いなピューリタンは別として、桃子さんはこの騒ぎに気付かなかったのですか」  桃子の声は消え入りそうだった。 「わたし……疲れていましたし、寝入りばなで……」  海方は桃子と笹木の顔を見較べたが、すぐ惚《とぼ》けた顔になり、それ以上は追及しなかった。 「いや結構。そうしたときがあるものです。総裁と力松さんはそれぞれの部屋に引き上げる。ところが、マドンナがパーティで酒盛りをしているんじゃないかと……実際はワインを飲んでいたんですが、この瓶は素早くシェフがどこかへ隠してしまった。テーブルの上にはミネラルウオーターの瓶だけ。マドンナはそのミネラルウオーターを紙コップに注いで毒見をして、酒じゃないのを確かめてナースステーションに戻って行きました。その後でアダムさんもその水を飲んでから部屋に引き上げる。その後なのです。私が同じ水を飲んだら、口が曲りそうに苦かった。つまり、すでにPTCが入っていたのです」  海方はその味を思い出したように苦い顔をした。 「そのとき、本当に見えない幽霊が出没して、ミネラルウオーターの瓶の中に妙な薬を入れたのじゃないか、と思いました。しかし、よく考えてみると、一度だけ隙があった。私たち四人が廊下に出て賭け金を分配していたほんのわずかな隙。その間、実に大胆ですが空になった二○一号室に素早く出入りが可能だ。しかし、私は早崎さんの部屋の前に立っていたので、それができるのは二○二号室にいる美島百合子でなければならない。そういう意味で、さっき百合子さんがとうに死亡していて、部屋の中にいる人がいないと知らされたときには愕然としたものです。私のグラスに毒を入れた者は全くいなくなり、振り出しの幽霊しか考えられなくなるではありませんか」  ズボンがずり落ちそうになって、海方は慌ててベルトを締めなおす。 「今、いろいろ話を聞いているうち、マドンナの腹が——いや、腹ではない舌です。マドンナの舌が苦味が判らなくなっている、と聞かされまして、その謎がたちどころに解けたのです。つまり、マドンナがミネラルウオーターの味見をしたとき、酒か水かの違いは判るが、それにPTCが入っているのを識別できなかっただけです。すでに、そのとき瓶の中にはPTCが加えられていたのですな」 「アダムさんもそれから水を飲んだというじゃないか。アダムさんも味盲なのか」  と、百田が聞いた。 「いや、アダムさんは昨日、総裁の国際会議報告でPTCを入れた水を口にして、はっきり苦いと言っていました」 「じゃ、どうしてパーティの夜は平気だったんだ」 「人は一時的に味盲になることがあります。強い刺戟物を食べた直後だと、舌が痺《しび》れて味盲の状態がしばらく続くものです。私はパーティの部屋にメントールの臭いがしていたのを思い出しましたよ。アダムさん、あのとき薄荷《はつか》を原料にした口中清涼剤を入れていたでしょう」 「はあ。精丹《せいたん》を三粒ほど口に放り込んでいました」  海方は満足そうに、 「アダムさんの味盲の原因は精丹だったそうです」  と、皆に伝えた。百田が念を押す。 「じゃ、珊瑚ちゃんはその前にPTCをミネラルウオーターに入れたのだね」 「ええ。二○一号室の電気が消えた、そのどさくさだったに違いないと愚考します」 「しかし、それでは珊瑚ちゃんがPTCを入れたとは限るまい。シェフにも力松にもできたはずだ」 「ご心配なく、そのミネラルウオーターの瓶は、現在、優秀な警視庁の指紋係のところへ廻っております。早晩、その瓶から珊瑚ちゃんの指紋が発見されるでありましょう」 「……お前はのろい男かと思ったら、なかなか素早いこともするな」 「恐れ入ります。ところで、私は昨日もそのPTCに付き合わされましたが、それは珊瑚ちゃんが、自分が密《ひそ》かにPTCを仕込んだ結果を見られなかったためなのです。珊瑚ちゃんは私たちがミネラルウオーターを飲む前に、部屋へ連れて行かれましたからな。珊瑚ちゃんは機会を見て、もう一度試さなければならなかったのです」 「ということは、探偵が味盲であるかどうかを確かめたかったのだな。探偵が味盲なら少少苦味のあるリザドトキシンを与え易いが、味盲でないとすると、それなりの工夫が必要だ」 「いや、そのときはまだ珊瑚ちゃんにはそうした計画はなかったのです。現実に、精神科病棟のほとんどの人がPTCで味覚を試されているのですからね」 「じゃ、珊瑚ちゃんは何だってそんなことをしたんだ」 「遊びと仕返し。その半半でしょう。最初、PTCで味覚を試されたとき、珊瑚ちゃんはその薬に大変興味を持ったのです。苦味を感じたり感じなかったりするふしぎな薬に。同時に、恥かしさも起こった。味覚がちゃんとあるのに、嘘を言っている自分の心を先生に知られてしまったからです。その恥かしさが攻撃に変わりました。誰かの飲み物などにそっとPTCを入れ、その人物がどんな顔をするか、見たくなったのです。珊瑚ちゃんは楽さんのいたずらに腹を立てて鬘をむしり取ったそうですから、復讐心の強い子だったようです」 「確かに、珊瑚ちゃんはPTCには興味を持っていました」  と、文字原が言った。 「自分でときどき試したいというので、余分にPTCを与えた記憶があります」 「それが、いろいろな場所で使われてきたのです。最初、その結果を見届けられなかった珊瑚ちゃんは、次に、食堂の水差しに目を付けたのです。私は国際会議の報告会で、総裁がPTCを飲まされたとき、てっきり魔法瓶にPTCが混入されたものとばかり思っていたが、大変な間違いでした。そう考えるから、またぞろ、幽霊の登場を願わないと話が通じなくなるのでして。実際は私が水を取りに食堂へ行ったとき、珊瑚ちゃんがいて、水差しの中にPTCを混入した後なのです」  進介が言った。 「海方さんが主任に断わって水差しの氷水を魔法瓶に入れる前、双橋さんが同じ水差しの水をコップに注いで飲んでいた。だから、水差しの水は白だと言っていたじゃありませんか」 「そう。確かにそう言ったが、これも最初のときと同じで、他人の舌を信用したからいけなかった」 「……すると、双橋さんも味盲だったんですか」 「いや、この病院にそんなに味盲が集まるわけはない。双橋さんはその水が苦かったけれど、我慢していたんだ」  海方は双橋の方を見た。双橋が答えた。 「ありゃ、凄く苦い水でしたよ。でも、知らん顔をしていたんです。というのは、僕はこの病院ではいつもおかしなことだけをしなければならない、と決め込んでいたからです」 「おかしな遊びに加わったり、夜中にセールスをしたりかね」 「ええ。でも、苦い水を飲んで苦いという反応を示すのはまともでしょう。どうも、あたり前なことは言う気がしませんでした。といって、咄嗟《とつさ》にばかばかしい言葉が思い付かず、黙っていることにしたんです」 「なるほど、佯狂《ようきよう》とは神経を使うものですな」  と、海方が言った。 「とうてい凡愚の及ぶところではない」  双橋は妙な誉められ方をしたのが不服そうだったが、少し首を振っただけだった。 「報告会の次が食堂です。これも、実に不可解な方法でPTCが混入されたのですが、犯人が珊瑚ちゃんだと判ると、実に単純な一件でした。あのとき、食堂で一件に立ち合ったのは、ええと……」  海方は進介の方を見た。喋るのがだんだん億劫《おつくう》になってきたので、あまり重要でないところは進介に説明させる気なのだ。進介は食堂でのことを思い出した。 「僕が食堂に行くと、海方さんと百田さんが入口で一緒になりました。食堂には奥の方に楽さん、力松さん、和多本さんが別別のテーブルにいて、後から来た鈴木さんと僕とが一緒のテーブルで話をしていると、食事を終えた力松さんが食堂を出て行きました。その次に、笹木先生と早崎さんが珊瑚ちゃんを連れて三人で食堂に入って来ました」 「その通り。問題はその三人が来てからで、桃子さんがカウンターの水差しから三つのグラスに水を入れ、それを笹木先生と珊瑚ちゃんのいるテーブルに運んだ。そのうちの一つ、珊瑚ちゃんが手に取ったグラスの中に、PTCが入っていたのです。ほら、自分のグラスの中にPTCを入れる者はいないという先入観を持つから良くものが見えなくなる。真実は珊瑚ちゃんが自分でPTCを入れたのです」 「……しかし、僕はこの目で見ていました。早崎さんが三つのグラスをテーブルに運び、珊瑚ちゃんがその一つを手に取って口に運ぶまで、そのグラスに薬のようなものを入れた人は誰もいません」 「ですから、そのときは普通の水だったのですよ」 「…………」 「珊瑚ちゃんは普通の水を飲んで、この水は変だ、と言っただけなのです。仕事はその直後なのです。珊瑚ちゃんが口を拭こうとしてハンカチを取り出したのを覚えていますね」 「……ええ、水色のハンカチでした」 「そのハンカチの中に、ビニール袋にでも入ったPTCが入っていたのですよ。それを、ハンカチの陰でグラスの中に落とす。実に賢い時間差攻撃でしたな」  海方はポケットから紙片を取り出した。海方が珊瑚のナイトテーブルに拡げられた本の間から見付けたメモだった。 「結局、食堂ではそのPTCを、笹木先生や桃子さん。シェフをはじめ、メードさん。後から食堂に来た婦長さんや花住さんがそのPTCを味わうことになったのです。珊瑚ちゃんはそれをじっと観察していました。その、観察記録がこれであります。珊瑚ちゃんが読んでいた本の間から見付けたものです」  文字原がその紙片を手に取った。 「これは、珊瑚ちゃんの手跡《しゆせき》なのかね」 「はい、そうです」  と、桃子が言葉少なに答える。  進介が説明した。 「ご覧の通り、これは精神科病棟に入院している患者の名簿で、院長や婦長も加えられています。そして、気になるのは三人の上に付けられている×印と、最後に加えられている〈×印は死んだ人〉という文章。ですが、もうお判りでしょう。珊瑚ちゃんはPTCを毒薬にたとえ、PTC溶液を飲んでも平気な顔をしていた人、すなわち味盲の人に×印を付けたのです。それは、全部で三人。田中留美子さん、双橋さん、それに自分自身。?印が付けられているのは、入院して来たばかりで試す機会がなかった小湊君、人前では滅多なものに絶対手を出さなかったピューリタン、辻川さん、鈴木一号さんです。しかし、後でその人達に同じPTCを試す気があれば空白にしておくはずですが、珊瑚ちゃんは?印で一応名簿をまとめていた。ということは、それで名簿は完成し、次の計画に取り掛かったことを意味します。PTCを毒にたとえるとき、閃《ひらめ》いたと思うのですが、今度はアダムさんから手に入れた、本物のリザドトキシンを使って人を殺す考えでした」  六月の陽《ひ》はすぐ高くなる。窓の外はまぶしいほどの陽光に溢れている。海方は遠くの緑に目を遊ばせていたが、すぐ元の調子に戻った。空腹を思い出して、のんびりしてはいられないと思ったらしい。 「美しいものには毒がある——使い古された言葉で恐縮ですが、一見、可憐な姿の珊瑚にも猛毒を持つものがありまして、六放サンゴ類のスナギンチャクもその一つ、この毒はパリトキシンという、ボツリヌストキシンに迫る致死量を持っています。私がなぜこんなことを知っているかというと……いや、話を早くするため、それは省略しますが、珊瑚ちゃんもスナギンチャクに劣らない毒性を持っていましたな。昨夜、桃子さんがコップに用意した牛乳。その中にリザドトキシンを混入する。その牛乳を飲ませる桃子さんは勿論、誰にも判らないように。その方法を、珊瑚ちゃんは考え付いたのです。食堂での成功が、自信を付けたのでしょう。珊瑚ちゃんは昨夜、それを実行に移したのです」  特に桃子が、食い入るように海方の話を聞いている。 「それは、これまでの方法とは違い、ちょっと手が混んでいました。そうでしょうな。桃子さんが毒死すれば、いつも身近にいる珊瑚ちゃんが一番先に疑われるでしょう。では、どうすれば容疑圏外にいられるか。そう、自分が遠く離れたところから、桃子さんの飲み物の中に毒物を投げ込めばいい。これは、本来なら遠隔殺人なのでした」 「……遠隔殺人」  思い掛けない言葉が海方の口から出たので進介はびっくりした。 「なんだ、小湊君はまだその方法が判らなかったのか」 「……曖昧模糊《あいまいもこ》としています」 「珊瑚ちゃんのナイトテーブルの上を見ただろう」 「見ました……海方さんは天井を気にしていましたね」 「天井に異状がなかったとすると、テーブルが気になるはずだ」 「……読書台に、本が開かれていました」 「それから?」 「本の間に紙片が挟まれていて——」 「その味盲の名簿なら話は済んだ。他には?」 「さあ……」 「仕方がねえ。じゃ、俺が話そう。ナイトテーブルの向こうは窓で、その窓枠に人形が並んでいたはずだ」 「……そうでした」 「その一つに〈イズとポン〉という人形があったはずだ」  進介はあっ、と言った。  イズとポン——少女イズの足元に犬のポンが坐っている人形。人形の本体に音のセンサーが組み込まれていて、人形の前で手を叩くと、その音をセンサーが感知してモーターを動かす。オルゴールが鳴りはじめ人形が動きだす。イズが持っている輪を前の方に差し出すと、犬は口を開けて一声吠えて飛び上がり、その輪をくぐり抜けて下に降り元の姿勢に戻るというもの。 「その顔は判った顔だな」  と、海方が言った。 「ええ……リザドトキシンをカプセルに詰めておきます。珊瑚ちゃんが毎日飲む薬の中にカプセル剤がありますから、その中身を入れ替えたんです。加工したカプセルは多少変形するでしょうが、これは誰にも見せるものではないので大丈夫です。そのカプセルをイズとポンのポンの口の中に入れておく。人形が動きだすと、ポンが口を開いて吠えますから、口の中のカプセルが飛び出す。そのカプセルは読書台の上で開かれている本の間を転がっていってその下にある牛乳のコップの中に落ち込むんです。カプセルは牛乳で溶け、リザドトキシンを混入した牛乳になります」 「五○点。犬が吠えれば、相手に気付かれてしまう」 「……オルゴールと犬の声を出す装置を止めておきます。海方さんが珊瑚ちゃんに頼まれて玩具を改造したのでしょう」 「人形を動かすときどうする。矢張り人形の前で手を叩くかね」  進介の頭が激しく回転した。 「モデルガンです。珊瑚ちゃんはモデルガンで遊んでいるうち、その音で人形が動きだしたのを見たのです」 「で、順序を立てて言うと?」 「珊瑚ちゃんは寝る前にその装置を作っておき、朝まで待ちます。牛乳のコップに変な真似をしなかったという目撃者が必要だからです。朝、看護婦さんが検温に来たとき、その牛乳を少しだけ飲む。そのとき牛乳に異状はなかったということを看護婦さんに示すために。珊瑚ちゃんはすぐ気が変わったように、もう飲みたくないと言い、看護婦さんと部屋の外に出てしまう。そして、急にはしゃぎ出してパジャマのポケットに用意しておいたモデルガンを取り出して音を立てます。多分、桃子さんもその音で外に出て来るでしょう。その間に、人形が動き出して、ただの牛乳が毒入り牛乳に変わります。桃子さんはさっき探偵……海方さんに、こう話していました。珊瑚ちゃんがその牛乳に手を付けなかったり、残したときは自分が飲むようにしている、と。珊瑚ちゃんはその間、部屋には戻らず、完璧なアリバイ作りをするでしょう」 「そして、実際には?」 「計画通り、珊瑚ちゃんはその装置を作って寝ます。ところが、夜中、予定にないことが起こりました。双橋さんが病室をセールスに廻り、桃子さんも起こされてしまった。挙句《あげく》の果て、双橋さんはひどい音を立てて鞄を床に落とし、中のものをぶちまけたのです。その音で、イズとポンが動き出したのです」  今朝、進介は鐘の音を聞いて目が覚めたはずだが、起きてみると鐘の音を聞いたという記憶はなくなっていた。だが、聞いていた証拠に、夢の中で留美子が「鐘を撞きましょう」と言った言葉を覚えている。多分、珊瑚にも同じことが起こったのだ。双橋が鞄を落とした音で珊瑚は目が覚めたのだが、起きたときその音は覚えていなかった。だから、装置は動かないと思い、牛乳を危険視しなかった。 「珊瑚ちゃんは起きてから、恐怖に怯えましたね。あれは、自分のしていることを思い出して急に恐ろしくなったのです。夢に魘《うな》された直後だったかもしれません。それで、計画は一時中止。珊瑚ちゃんはナースステーションで寝ることになりました。問題の牛乳は、花住さんがナースステーションに持って行きました」 「毒牛乳が珊瑚ちゃんの後を追い掛けて行ったのですな」  と、海方が言った。 「わたしが毒を運んだ、なんて——」  と、玲が恐ろしそうに言った。 「直接、人形を動かしたのは、僕だったんだ」  双橋も呆然とした顔になった。海方が言う。 「いや、誰、彼と言うことはできません。珊瑚ちゃんにリザドトキシンを盗られたのは楽さんだし、その毒を作ったのは先代の院長で、イズとポンを買ってやったのは珊瑚ちゃんの父親です。合縁奇縁、人はいろいろな出会いによってさまざまな行動をするもの。イズとポンの音を止めてやったのも実は私で、珊瑚ちゃんは犬の声が嫌いだというのを聞き機械に手を加えてやっただけですが、珊瑚ちゃんはまだPTC遊びに夢中だったときで、それからPTC遊びがエスカレートして本物の毒を使う計画が起きたとすると、私もその片棒を担いでいたことになります」 「じゃ、海方さんはイズとポンの秘密を知っていたから、口を閉ざされそうになったのですか」  と、進介が訊いた。 「そう。わしは探偵だ。しかもイズとポンを改造した人物。珊瑚ちゃんはその秘密を探偵が見破るに違いないと思ったのです。しかし、不思議な事件でした。常識ですと、犯人は犯行後に秘密を嗅ぎ付けられた者を消そうとするでしょうが、この場合は反対に、秘密を持っている者が先に殺されそうになったのですからな」  そのとき、海方の腹が、ぐうと大きな音を立てた。海方は福岡の方を向いた。 「シェフ、朝食のメニューは?」 「……朝粥《あさがゆ》定食です。特製の小鯛の粕漬けをご賞味してもらいます」 「それはまた楽しみです。いや、昨日の蛸《たこ》も忘れられません。蛸といえば、タコフグは自分の毒で死ぬことがあるという。珊瑚ちゃんはさしずめそのタコフグでした」  進介が特犯に電話をすると、海方が採取した指紋と、薬物の分析結果が出ていた。  海方の言う通り、ミネラルウオーターの瓶には珊瑚の指紋があり、そのいくつかは瓶の首の部分に集中していた。つまり、瓶の中のものを注ぐには不自然な位置で、瓶の首を片手で持ちながら、瓶に何かを入れたことを意味しているのだ。薬物はPTCだった。電話に出た特犯の三河課長は、角山刑事部長が海方を見舞いたいと言っているから、これから二人で病院へ行く、と言った。  進介がこのことを海方に告げると、海方は渋い顔をし、 「いっそのこと、本物の佯狂となり、もう少しのんびりとしたいの。それについて、少しの間、診察室をお借りしたい」  と、文字原に頼み込んだ。  終章 パリトキシン  進介が三河課長と角山刑事部長を診察室に案内すると、海方はデスクの向こうにふんぞり返り、ジャンパーを着た中年の男を前に立たせていた。男はしきりにぺこぺこお辞儀をしていたが、海方が顎をしゃくると、こそこそと外へ出て行った。 「何ですか、あの男は?」  と、三河が海方に訊いた。 「犬山米穀店という、出入りの米屋です。犬山は暴利を貪《むさぼ》っていたことが判ったので、今、叱ってやったのです」  三河と角山は顔を見合わせた。 「こりゃあ、本物だ」  と、三河が言った。 「その顔は、私が院長だというのを疑っていますな。よろしい、これから回診に出掛けますので、ドア越しにご覧なさい」  海方は辻川を従えて病室を見て廻った。  力松は二○二号室から持ち出した何点かの絵を前にして涎《よだれ》を流していたし、楽は海方を見ると裸になった。双橋は三河と角山を見るとすぐにマンションの説明をはじめたし、和多本は消毒臭い部屋を閉め切ってまだ寝ていた。百田は紙幣をプリントしたパジャマ姿で、恐ろしく長い系図の制作中だった。  海方は部屋を出るたびに、手短かに病状を説明した。 「ずいぶんユニークな人たちが集まっているんですね」  と、三河が言った。 「それにしても、皆、ふしぎと楽しそうじゃありませんか」 「そうとばかり言えないのですよ」  海方は首に掛けた聴診器をまさぐりながら言った。 「中には気の毒な人もいます。この早崎珊瑚という少女は昨夜、心臓発作を併発して死亡しました。これから、その母親に声を掛けてやらなければなりません」 「……変な死に方ではなかったんでしょうね」 「特犯はすぐにこれだ。そんな了簡だと、女性に持てませんな」  海方は早崎の病室を開け、桃子に声を掛けた。 「ご主人に連絡がつきましたか」  主人は三時にはここへ到着すると桃子が答えた。 「あんまりくよくよと考えるとあなたの身体に障《さわ》ります。情のない言い方をするようだが、全ては命数だと思うことです」 「はい。探偵——いえ、院長先生のご恩は一生忘れません」  海方が部屋を離れると、三河が言った。 「偉いもんだね。あの美人、亀さんのことを一生忘れないと言っていた」 「そうでしょう。もう一人の美人も私に首ったけなのです」  最後が特別室だった。文字原はベッドに寝て息苦しそうだった。傍で留美子が介抱している。 「いかがですか」  と、海方が声を掛ける。 「また、例の発作が……」  留美子が救いを求めるように言った。 「本当はあの薬を長く続けたくはないのですがね。毎度言うように大病院へ移った方がよろしいでしょう。紹介状はいつでも書きます」 「先生のご親切は死んでも忘れません」  海方は振り返って進介に、 「君、例の薬をマド……田中さんにお渡しなさい」  と命令した。  特別室を出ると、角山が言った。 「びっくりしたよ。今度は亀さんのことを死んでも忘れないと言った」  海方はいたって鷹揚《おうよう》に説明する——。 「人間はホモ デメンス。ご存知かな。錯乱のヒトなのです。これはヒトが文化を持ってしまったからで、限りない制御の中で暮らさなければならないからなのです。ご両所もくれぐれも注意して下さい」  三河と角山を玄関まで送ると、三河が進介に言った。 「亀さん、本物だね。ありゃ」 「診察室に入れろ、ときかないんです。言う通りにしたら、ああなりました」 「最初聞いたとき、亀さん、女性の患者のおっぱいを触りたいんだろうと思ったけど、違うね」 「違いますよ。あの目を見たでしょう。海方さん、真剣なんです」 「……いつ治るかな」 「さあ……」 「まあ、大変だろうが当分は亀さんの子守りをしてやってくれ」 「そりゃ、大変な仕事ですよ。特別手当てを下さい」 「おい、なんだか君は亀さんに似て来たみたいだぞ」  角山がしみじみと言った。 「亀さん、なぜか悟道の境地にあるような気がしませんか。私はあの魂の自由が……羨《うらや》ましい」  その海方も、富士子だけには佯狂《ようきよう》を続けることはできなかった。  夕刻近く、富士子が佐織と一緒に海方の病室へ足音高く入って来た。  海方は進介を前にして、ベラドリンコの絵解きをしているところだった。 「そりゃあそうさ。ベラドリンコの缶の中身がノアコーラに入れ換わっているのは、缶を開けて中身を取り換えたものじゃねえから、科学研究所でいくら調べたって缶などに傷は見付からねえのさ。ここに、同じとき買ったノアコーラがある。どうだ。缶は製造時のまんま。どこにも傷はねえ。手に取って確かめや。そうだな。だが、よく見や。この缶の周りの印刷は実はシールだ。だから、隅を探ってシールの角に爪を立てると、ほら、見ねえ、ノアコーラのシールがこのように剥《む》ける。と、下から缶に印刷した本来のデザインが現れる。どうだ。すっかりシールを取ると、この缶は見事にノアドリンコに化ける。びっくりしただろう。なに、誰がそんなトリックを考えた? こりゃ、トリックじゃねえ。前に、ここの販売機で買った、正銘のノアコーラだ。ほほう……ノアボトリング社に行って来たのか。それならもしかして、今、ベラドリンコは製造中止になった、と言やしなかったか。な。俺の言う通りだろう。ノアボトリング社は清涼飲料水の新製品ベラドリンコを売り出したが、見込み違いがあって売れ行きが芳《かんば》しくねえものだから、製造中止になった。ところが、ベラドリンコの缶が沢山余ってしまったんだ。これを潰すとなると、赤字の上に赤字が積もってしまう、というところから、売れ行きの順調なノアコーラのシールを作ってその缶に貼り、ノアコーラを詰めて売ることにしたんだ。まあ、飲み物の缶などは、いらなくなりゃ捨てられる運命。たまたま、俺は閑だったもんだから、その缶のシールを見付けた。それに、もっと閑だったもんだから、特犯の連中を煙に巻いて、君をここに来させる道具に使ってみたくなったのさ。そのシール付きのノアコーラはもう売り切れてしまったらしく、今、販売機に入っているのは、皆、普通の缶になっている。多分、そんなことだろうと思ったから、シール付きのノアコーラを一本だけ手元に取っておいた。ここにあるのがその缶さ」  富士子は部屋に入って来ると、海方の前に立ちはだかった。 「これは珍しい。このたびはよく見舞いに来てくれますな」  と、海方は身体を小さくした。 「誰が佯狂の見舞いなんかに来るものですか」  進介にも富士子の額に角が見えた。 「捜査に来たんです。あんたはわたしに隠して、預金通帳を作っていたね」 「あ……あれは」 「見付けたんだから、もう、駄目。つべこべ言わず、ここへ出すんだ」  海方は慌ててベッドの枕の下から通帳を取り出した。富士子はそれを引ったくり、佐織に言った。 「あなたもよく覚えておくんですよ。男は皆こうなんだから。油断も隙《すき》もありゃしねえや」  そして、通帳を繰っていたが、 「どうせ臍《へそ》がないのだから、吝嗇《けち》な臍繰りだろうと思っていたけど、たったこれだけかい」  と、一段と声を荒くした。 「……なにぶん、薄給のことゆえ」 「役人にゃ役得が付きものだろう」 「それが……私は至って正直ゆえ」 「この、甲斐性なし」  富士子は通帳を自分のトカゲのバッグに放り込んだ。海方に対してその毒性はパリトキシンより強烈だったはずだ。  富士子が帰ってから海方は自分の心境を託した一句を進介に示した。それは、   わがものと思えば可愛い真田蟲《さなだむし》  というのだった。 〈了〉 本作品は、一九九〇年四月、本社より単行本として刊行されました。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九三年九月刊)を底本としました。